学校・チーム

【準硬式】教えて準硬式野球!日大の選手、コーチに聞きました!(前編)

2020.4.6

大学で野球を続ける道は硬式だけではありません。99年に同志社大から西武に入団してプロ通算210試合に登板した青木勇人投手、帝京大から16年に楽天に入団した鶴田圭祐投手、関西学院大から16年巨人に入団した坂本工宜投手など、近年、準硬式からもプロ野球選手が誕生しています。そんな準硬式の世界を知るべく、強豪の多い関東の中でも屈指の力を誇る日本大学の準硬式野球部の杉山智広コーチ(写真右)、井上絢一朗選手(写真左)の二人に話を聞きました。


杉山コーチは高校時代、日大三でプレー。3年夏は背番号12だったものの主将を務め、近藤一樹投手(ヤクルト)らとともに全国制覇も成し遂げています(先日、取材した立正大立正の内田和也監督とも同期)。全国制覇したチームの主将と言えば、大学でも当然硬式野球を続ける選択肢はあったはずですが、なぜあえて準硬式という道を選んだのでしょうか?


杉山「高校時代に肩を故障しまして、1年の夏から2年の夏まではほとんど投げられないような状態でした。3年生の時には何とか投げられるようになったんですけど、レギュラーにはなれなくかったというのがまず大きいですね。きっかけとしては二つ上のキャプテンで今、日大三高のコーチをしている白窪(秀史)さんが日大の準硬式に進まれていて、声をかけてもらったというのがあります。他にも硬式の野球部から話はあったそうなんですけど、選手というよりもマネージャーとしてということだと聞いて、それであれば準硬式でも選手として日本一を目指せる環境の方がいいなと思って決めましたね」

その言葉通り、杉山コーチが大学2年の時にチームは日本一に輝いています。しかし当時は今以上に準硬式についての情報がない時代。入部当初はカルチャーショックもあったそうです。

杉山「まずチームの体制や練習も(日大)三高とは180度違いました。自前の練習場所がない。練習時間が短い。監督やコーチが選手にガッツリ教えることもない。試合をしてもお客さんも応援もほとんどいません。最初はビックリしましたね。当時は準硬式の野球部も推薦制度があって、その基準が甲子園出場以上だったので他にも甲子園に出場した選手もいたんですけど、やっぱり高校野球とのギャップで燃え尽き症候群になってしまうような部員もいました。そんな中でモチベーションを高く持ってやっていこうと完全に切り替えるまでは一年くらいかかったような気がしますね」

井上選手も佐賀県内では屈指の強豪である佐賀商の出身で、在学時もチームは1年の春・秋、2年の春・秋と4季連続して九州大会に出場しています。そんな井上選手にも準硬式野球を選んだ理由を聞いてみました。

井上「父が日本大学の理工学部の方の準硬式をやっていて、その影響もあって準硬式というものがあるという認識はありました。自分が高校在学中に、日大の準硬式がちょうど佐賀で春のキャンプをやることがあって、その練習も見学させてもらいました。私の2つ上に佐賀商の先輩が日本大学準硬式野球部におられ、学生主導で意識高く日本一を目指していると聞いて、高校時代に成し遂げることができなかった日本一に再挑戦したいと思い入部を決めました。」

準硬式のボールは硬式とは違い、表面はゴムでできている。そのことによるプレーへの影響や戸惑いはなかったのでしょうか?

杉山「打球のバウンドや打つ感覚についてはそれほど硬式とは差がないのですぐに慣れました。ただ打った時に軟式のようには凹まないんですけど、空気抵抗の問題なのか硬式に比べると飛距離が出ないですね。あと重さも大きさも硬式と同じそうなんですが、持った感覚としては若干軽く、小さく感じます」

高校時代とは練習環境、時間も全く違うという話だったが、普段のスケジュールについても聞いた。

杉山「普段の平日は朝6時から9時までが練習です。グラウンドの都合もあってそのようにしています。あと授業優先というのがありますから、1限に出席しないといけない学生は7時台や8時くらいに抜けることもあります。ブルペンと打撃練習ができる施設はありますので、授業後にはそこで自主練習できる選手はやるという感じですね」

井上「6時練習開始なので4時半には起きています。最初は辛かったですけど、今では慣れました(笑)」


後編では更に踏み込んだ準硬式の制度などについてお届けします。
(取材・文:西尾典文/写真:編集部)


関連記事



PICK UP!

新着情報