さまざまな反論とその回答を書いてきました。繰り返しになりますが、この記事で主張したいのは、「流れ」の存在を絶対視しないこと、つまりフェアな姿勢で「流れ」の存在を考えていきましょうということです。それでもやはり、「流れは絶対に存在する、疑う余地もない」と思う人もいるでしょう。
そこで最後に、「流れ」の存在を絶対視することで陥ってしまう、やっかいな問題について紹介しておきます。
以下の文を読んでみてください。
・ダブルプレーでピンチを切り抜け、流れをつかんで得点した
・ダブルプレーでピンチを切り抜けたが、流れをつかめず無得点だった
こんな感じ解説、よく聞きますね。得点したのは「流れをつかんだから」、無得点だったのは「流れをつかめなかったから」です。しかし、この説明には問題があります。それは、何が起こっても「流れ」で説明でき、「流れ」の存在自体は疑われないという点です。なんだ、やっぱり「流れ」の存在は絶対的なものだ、と思うかもしれませんが、以下の例はどうでしょう?
・ダブルプレーでピンチを切り抜け、野球の神様の力をもらって得点した
・ダブルプレーでピンチを切り抜けたが、野球の神様の力をもらえず無得点だった
「野球の神様」でも同じように説明でき、しかもその存在を疑うことはできません!「野球の神様」の存在は絶対的なものなのでしょうか? そうではないですよね。
このように、どんなことでも説明でき、しかもその存在が疑われない状態を、少し難しい言葉で「反証可能性がない」と言います。何でも説明できるというのは、何も説明していないのと同じです。何も説明しないなら、そんなもの考えなくてもいいのでは、ということになってしまいます。
また、反証可能性がないとき、多くは「科学の対象とはならない」ものとみなされてしまいます(幽霊・UFO・超能力など)。「流れは科学の対象とはならない」という意見もあるかもしれませんが、それはもう、「流れ」が昨今のデータ重視の野球にはなじまないという意味にもなってしまいます。
「流れが存在するかどうか」は、意味のある問いです。結局のところ、「流れ」の存在が大切だと本気で言うためには、まずその存在を疑う必要があるということです。フェアな姿勢で「流れ」の存在を考えることが大切なのは、こうした理由のためです。
次回は最終回として、これまでの内容をまとめた上で、今後「流れ」をどのように考えていけばよいのかについて、書いていきたいと思います。
(鹿児島大学准教授/榊原良太)
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