(第二章・明豊のチーム作り「あの手この手」で形作られた九州最強軍団~金髪にピアスの打撃投手~より)
かつて「ドラフト候補」と目された圧倒的能力を備えながら退部した生徒がいた。その部員を助けることができず、結果的に辞めさせてしまったという負い目を感じていた川崎監督は、夏の大分大会初戦直前になってその生徒に「打撃投手をやりに来ないか」と申し出ている。ド派手ないで立ちで登場したかつてのチームメイトにグラウンドは騒然。しかし、同級生は久しぶりの再会を喜び練習も大いに盛り上がった。これが夏の大会初戦の前日のことだ。
チームはここから加速し、この大会を制して甲子園出場を果たした。この夏は決勝で森下暢仁(広島)を擁する大分商に1-0で辛くも勝利し、川崎監督にとっても甲子園初指揮が叶ったのだが、決勝戦でタイムリーヒットを打ったのが、生徒の退部によって出番が回ってきた選手だった。すべては巡り合わせの一環だった。川崎監督にとっても一生忘れられない年代となった。
「甲子園の経験が重なっていくと、次第に時間がいくらあっても足りないと感じるようになる」
(第三章・負け=進化の時、敗戦をいかに挽回してきたのか~“なんとかなる”は“なんともならない”~より)
センバツの懸かった秋の九州大会では少なくとも2勝が必要になる。以前の川崎監督は「たった2勝」と感じていたが、その「たったふたつ」が果てしなく遠い。また、夏に臨む上で「県内ではウチが一番練習しているんだから、なんとかなるでしょ」という甘い考えがなかったといえば嘘になる。そして、その「あとひとつ」に何度跳ね返され続けたことかとも語っている。
そうした甘い考えは、甲子園を経験するたびにどこかへ消え失せていった。甲子園の経験値が増すほど「時間が足りない」と感じるようになり、準備に余念がなくなることから、以前のような甘いことを考える時間すら惜しくなるのだという。川崎監督も「僕自身に甲子園の経験がなかったら、立ち位置を見誤っていた可能性は充分にあった」というだけに、経験値の大小は非常に大きなポイントになってくるのである。
第一回:川崎絢平監督の試行錯誤と「柔軟力」
第二回:「全力疾走は『美徳』ではない!」と川崎絢平監督が語る、その真意
第三回:変化を続ける「柔軟力」を武器に、川崎絢平監督が目指す夏の頂点
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