企画

球速120キロから145キロを実現した相原雅也氏のストーリー⑤

2016.4.30

 昨年6月にアップされ大反響を呼んだ記事「身長168cm、球速120キロの並の高校球児が、わずか数年で145キロの球を投げる方法」。その著者でもあり、実体験をお持ちの相原雅也さんが、実際にどのような経験をし、どのようなトレーニング方法で145キロの球を投げるようになったのか、そのストーリーをお聞きしました。


「最後の挑戦」
 四国アイランドリーグ高知ファイティングドッグスでの2年目、17勝を挙げて最多勝利を挙げるなど、破竹の活躍を見せた相原さんでしたが、願い続けたプロ野球ドラフト会議には指名されることなくシーズンを終えます。この時、頭をよぎったのは「ここでプロに引っかからなかったら、3年目をやっても同じだ」チームからは3年目の契約を求められましたが、更新はせず退団を決意します。

「正直、アイランドリーグで出来ることはすべてやった。でもここで野球を終わりにしたくない」

 次に戦いの場を求めたのは、さらにレベルの高い社会人野球。中でも強豪チームの新日鐵住金かずさマジックでした。

 当時29歳となった相原さんにとっては文字通り最後の挑戦となります。当時のライバルチームにはホンダに長野久義(現巨人)、日本通運に野本圭(現中日)などが所属する群雄割拠の社会人リーグ。独立リーグとは比べものにならない激しい競争の中で、ローテーションを勝ち取ることは容易ではなく、さらに1年目のキャンプで怪我を負ってしまいます。

「これまでとは明らかにレベルが違いました。立て直しがきかず本当にきつかったです」

 それでも生き残りをかけて、2年目は先発から中継ぎ、抑えに転向。県大会では大事な場面を任されるなど、結果を出し始めた頃、運命の2008年がやってきました。都市対抗予選4点ビハインド、1死1塁3塁の場面で1つ年下の選手と対峙した相原さん、1-3から投じた勝負球のフォークでした。ボールは楽々とレフトスタンドへ。

「あ、ここが俺の限界かなと。」現役引退を決意した瞬間でした。

(取材:小笠原大介)


「球速120キロから145キロを実現した相原雅也氏のストーリー⑥」へつづく


■相原雅也氏 プロフィール
1980年茨城県取手市生まれ 小学校3年で野球を始める。藤代高校に投手転向。中央学院大学軟式野球部ではエースとして東日本大会連覇。2005年四国アイランドリーグ、高知ファイティングドッグスに入団し、11勝。06年には17勝を挙げて最多勝利。2007年に社会人新日鐵住金かずさマジックに入団。主に中継ぎ、抑えとして登板し2008年に現役引退。現在は是吉興業株式会社 販売事業部のマネージャーと傍ら、怪我をしない投球フォームを伝授する「スローイングクリニック」を主宰する。

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