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【あの球児、今何してる?】倉見育瑠(明石商業―日本体育大学)

2021.11.29

4年前にインタビューした球児達も今はもう大学4年生。あの頃語ってくれた夢は叶ったのでしょうか? 高校時代を今はどんなふうに振り返ってくれるのでしょうか? 間もなく社会に羽ばたくあの頃の球児達に再びお話を聞きました。今回は明石商業から日体大ソフトボール部に進んだ倉見育瑠さんを尋ねました。


3年連続決勝で敗れた高校時代

4年前のインタビューこちら

——4年前になりますが、高校3年生の時に「Timely! web」の取材を受けたことを覚えていますか?
覚えています。話したことが結構そのまま載っていてびっくりした記憶があります(笑)。

——掲載後、周囲の反応、反響などはありましたか?
写真がちょっとぎこちない感じで友達とかに結構イジられました。今でもLINEで送られてきたりします(笑)。

——なんかすみません(笑)。倉見君の名前で検索するとその記事が結構上の方に出てきますけど悪影響は出ていませんか?
いえいえ。あれで自分が明石商で主将をやっていたことが知られてプラスの面も多いです。マイナスは友達からイジられるくらいですから(笑)。

——ちなみに、当時のインタビューをいま読んでみてどうですか?
高校野球を頑張っていたんだなぁと思いますね。

——インタビューでは「2年連続で兵庫大会決勝で負けているので、最後を勝ちきって初の夏の甲子園に行きたいと思います」と話していましたね。
でも自分たちも決勝で負けて、自分の高校3年間ずっと決勝で負けてしまいましたね。準決勝までは粘り強い戦いができていて、決勝の相手が秋に負けた神戸国際でしたので何とか勝ちたかったんですけど、全然相手の力が上でした。決勝戦はほぼ何もできなかったですから。

——高校野球3年間で一番キツかったことは?
冬の練習ですね。週7で練習をやっていてほぼ毎日トレーニングも入ってきていましたので、もう体がしんどかったですね。とくに2年の冬は肩をケガしていて手術をしないと治らないと言われていて、手術をして残りの高校野球を諦めるか、痛くてもサポーターなどを巻いてやっていくのかをどうするか様子を見ているところでしたので、モチベーションが全然上がらなくて、肉体的にも精神的にもキツかったですね。

——高校野球で一番の思い出は?
最後の夏の大会ですね。ずっと歴代で一番弱いチームと言われてきましたし、先輩方が2年連続で決勝まで行かれていましたので簡単に負けるわけにはいかないというプレッシャーがありました。その中で狭間先生についていって、やってきたことをそのままチーム全体で出せて決勝まで勝ち上がれたこと。最後は負けてしまいましたけど、それが一番の思い出ですね。

恩師に勧められたソフトボールへの転向



——進路として日体大を選んだ理由は?

さきほど話したとおり、2年の冬に肩を壊した時に狭間先生と進路の相談をしたんです。そこで大学で野球の距離だと肩が厳しいんじゃないかというのと、大学で活躍するならソフトボールという道もある、日体大のソフトボールは強いしやってみないか? と勧めていただいたことがきっかけです。

——なるほど。大学でソフトボールに転向した裏にはそういういきさつがあったんですね。
もう一つは東京オリンピックでした。日体大のソフトボール部はオリンピックにボランティアとして携われると聞いていたので、それも大きかったですね。

——大学ではじめて親元を離れてみてどうですか?
はじめの頃は1人でご飯を食べることにすごく違和感がありました。1日家にいたら誰とも喋らないですし。高校時代は練習がキツくても家に帰ったらご飯やお風呂が用意されてあって自分は何もせずにあとは寝るだけ、起きたらまた朝ご飯が用意されてあるという感じだったんですけど、大学で一人暮らしをすると当たり前ですけど練習から疲れて帰ってきても自分で食事も用意しないといけないですし、洗濯もしないといけない。高校の時も親のありがたみを感じていましたけど、大学生になって余計に感じるようになりましたね。

——関西と東京の違いはどうですか?
明石商ではスポーツクラスだったんですけど、一日ずっと笑いが絶えない感じで楽しくやっていました。でも東京に出てきてから笑う量が減った気がしますね。みんなクールで(笑)。

——大学では何学部? どんな勉強をしていますか?
体育学部です。基本的には体育の教員を目指す人が多いですね。1年のときは授業のほとんどが実技、2年になるとスポーツ栄養学などの座学が多くなり、3年になると教師になったときにその競技をどのように指導するかという実践指導法などを学びました。


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