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【ビジネス界の元球児】株式会社スポーツバックス 代表取締役 澤井芳信さん(京都成章高校出身)

2015.6.12
このコーナーでは「ビジネス界の元球児」と題して、現在ビジネスの世界で活躍する元高校球児達にインタビューを行います。現役の高校球児達に向けて、今すべきこと、将来に向けてしておくべきことなど、様々なお話しを伺います。


(プロフィール)
澤井芳信さん。1998年、京都成章の「一番・ショート・主将」としてチームを率い、春夏連続で甲子園出場。夏には決勝まで駒を進め、”怪物”松坂大輔を擁する横浜高校と対戦し準優勝。高校卒業後は同志社大へ進み、社会人野球のかずさマジック(現・新日鐵住金かずさマジック)でプレーした後、スポーツマネジメントの会社に転職。現在は株式会社スポーツバックス 代表取締役を務める。
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【格上の強豪を破るために高い意識で工夫した高校時代】

ーー高校時代は京都成章でご活躍された澤井さんですが、まずはそれまでの野球人生を振り返ってください。
澤井 野球チームに入ったのは小学校3年生のときだったと思います。地元の京都市は野球が盛んなイメージですが、僕がいたのは弱小チーム。大会でもほとんど1回戦負けで、投手のストライクが入らないので外野手が座ってお菓子を食べているとか、そんなレベルでした(苦笑)。中学では軟式野球部で内野を守って、最後はエースにもなったんですけど、市内大会で負けているので大した実績があるわけでもない。当然、強豪校から誘われることもなく、「どこの高校へ行こうかな」と。ちょうど中3の夏(1995年)、京都成章が甲子園初出場していたので興味を持ち、同じ野球部の田坪宏朗と一緒に練習会へ参加したんです。その後、普通に受験をして進学が決まりました。

ーー京都成章は当時まだ新しい学校でしたが、京大合格者も輩出するなど文武両道を掲げています。勉強と部活動は両立できましたか。
澤井 勉強のほうは入学してからが厳しくて、とりあえず赤点を取らないように必死でしたね(苦笑)。野球部は7時とか7時半くらいから朝練をするんですが、毎朝8時10分には学校の早朝テストがあるので教室へ早めに行かなきゃいけない。また授業中に寝ていたり、赤点を取ったりしたら練習にも出られません。そもそも野球部寮はなく、僕は通いなので朝6時くらいに家を出て、学校の最寄り駅に着いたら自転車を30分ほど漕いで坂道を上っていく。授業が終わると16時前から20時くらいまで全体練習をして、そこから自主練。家に着くのは22時過ぎくらいで、お風呂や食事を済ませたらすぐに寝る、という生活でした。ただ、試験が近い時期には深夜に起きて勉強してから学校へ行くなど、工夫はしていましたね。

ーーその一方で、練習についてはどんな思い出がありますか。
澤井 僕たちのグラウンドは一応マウンドがあるものの、両翼70mくらいしかない普通の校庭。しかもラグビー部との日替わりで使っていたので、常に目いっぱい練習できるという環境ではありません。ただ、選手のモチベーションは高く、もともとグラウンド整備の時間に充てていた昼休みも練習するようになったり、少しでも時間を有効に使おうという意識を持っていました。また、今でこそコンディショニングやメンタルトレーニングが大事だというのは当たり前の話になっていますが、僕たちは当時からコンディショニングコーチや整体師、メンタルトレーナーのサポートのもとで取り組んでいました。僕らの世代はシニアやボーイズの主力選手が平安(現・龍谷大平安)や北嵯峨に集まり、僕らはほとんどがいわゆる“軟式上がり”。彼らに勝つためには、何か違うことにも取り組まなければならないと。

ーー具体的にはどんな取り組みだったのでしょうか。
澤井 コンディショニングのメニューを紹介すると、たとえば僕は体重が62〜63キロだったので10分の1にあたる6キロのオモリを持って、腹筋や背筋を行います。このとき、腹筋であれば上体を45度にしたまま1分間キープ。その後、足を上げて1分間キープ。背筋の場合も上体を浮かせたまま1分間キープ。さらに、足を上げて1分間キープ。最低でもこれをクリアするという基準がありました。そのほかにも体幹メニューがたくさんあり、目を閉じて片足立ちを2分間キープするバランストレーニングとか、瞬発系トレーニング、体の軸を意識したトレーニングなど…。またメンタルについては腹式呼吸とイメージトレーニングを行い、良いイメージを持つ習慣をつける。僕の同期は14名と少なかったこともあってチームワークも良かったし、素直な人間が多かったので、そういうものがスッと浸透したんですよね。やらされて練習をしているヤツは一人もいなかったですね。

ーーそういう特色のチームというのは、当時にしては珍しいですよね。
澤井 そうですね。でも僕たちは普段からそういうことをやっていたから、自分たちの体のことも分かっていました。体のチェック項目などもいくつかあって、たとえば「股関節が緩んでいるな」と思ったらストレッチを行ったり、自分でグッと股関節を押し込んで引き締めることもしていた。3年春のセンバツ初戦(2回戦)で岡山理大附に2対18とボロ負けをするんですけど、そのときは「整体を受けて体が緩くなっているのに、引き締めずに臨んでしまった」という反省が出ましたからね。あと練習の思い出ということで言えば、「27アウト」っていうメニューがありましてね。バッテリーと内野手が守備に就いて、内野ゴロの一塁送球9回、ゲッツー9回、バックホーム9回を連続で行う。ミスが出たら一からやり直しなのでプレッシャーが掛かるし、だんだん疲れてくるし、グラウンドも荒れてきてイレギュラーバウンドになるし、全然終わらないんですよね(苦笑)。また外野手はランナーをやるんですが、守備にミスが出たら必ずベースランニングを1周してから再スタートなので、とにかく走りっぱなし。あれで体力も精神力も鍛えられましたね。


【チームの結束力を発揮して前評判を覆した夏の甲子園準優勝】

ーー澤井さんは3年時(98年)に主将を務めながら「一番・ショート」としてチームを率い、春夏連続で甲子園出場。そしてチームは夏に全国準優勝を果たすわけですが、躍進の要因は何だったのでしょうか。
澤井 実力は高くなかったんですけど、チームの結束力が強かったからかなと。僕には「このチームは強い」って感じた瞬間があります。僕たちは当時、相手にスキを見せないために「ガッツポーズをしない」とか、「赤信号を渡らない」、「電車やバスで座っているときはバッグをヒザの上に置く」など、日常生活まで細かくルールを作っていました。そしてあるとき、僕が道を歩いていたら、その前にメンバー外の同級生がいましてね。中学時代にヤンチャだった彼が、人も車も通らず誰も見ていないところで、距離がわずかしかない横断歩道の赤信号が変わるのを待っていたんです。事あるごとにみんなで「普段の姿勢がプレーに表れる」って言い合ってきたので、見えない部分でも徹底することが当たり前になっていたんですよね。

ーー選手それぞれが高い意識を持っていたんですね。
澤井 監督や部長にそういう姿勢の部分を指導してもらっていたのも大きいと思います。「姿」に「勢い」と書いて「姿勢」。良い姿をしていなければ、勢いは生まれないんですよね。それとエピソードがもう1つ。これもメンバー外の同級生の一人なんですけど、3年夏の大会で試合前のキャッチボールをしていたとき、雨が降ってきてメンバー外の選手がグラウンド整備をすることになったんです。そこで1年生に混ざって率先して整備をしている彼を見て、あとで「スマンなぁ」って声を掛けたら「俺はもうやり切ったし、お前らが勝ってくれたらそれでいいから」と。そこで「絶対に負けられないな」と思いましたし、この出来事も強く印象に残っていますね。

ーーそういうチームワークも生きたわけですね。ただ、澤井さんの年代は横浜高校の松坂大輔投手(現・ソフトバンク)を中心とした“松坂世代”です。失礼ながら、その中で準優勝というのはすごいですね。
澤井 僕らもそこまで行けるとは思っていなかったですよ。大会のレベルも高かったし、ABCで実力をランク分けすれば間違いなくCランクのチームですから(笑)。ただ、普段の取り組みが大きく生かされたとは思います。初戦(対仙台)はすごく緊張していて、10対3とリードして9回を迎えたんですが、そこから連打や守備のミスなどで3点差まで追い上げられた。でもそこで僕がみんなに言ったのは、「意識が頭に行ったら上半身が硬くなる。息を吐いて屈伸して、意識を下に落とせ」と。これで舞い上がっていたのがスッと落ち着いて、何とか勝利することができました。いざというときにそうやって気持ちを落ち着かせる方法がパッと頭に浮かんだのは、メンタルトレーニングの成果ですね。  あとコンディショニングも大きくて、1回戦に勝ったあとが中1週だったんですが、最初の3日間くらいは心身を追い込む練習を行ったんです。現地でグラウンドを借りて練習し、最後はポール間走や短距離走などの走り込み。そして、残りの期間を調整するという感じでしたね。2回戦(対如水館)に勝ったあとは中2日で、1日だけ追い込んでから調整。この“追い込み”によって、体は万全の状態で臨めていました。

ーーさらに3回戦で桜美林、準々決勝で常総学院、準決勝で豊田大谷を破りました。決勝進出はどんな心境だったのでしょうか。
澤井 決戦前夜にテレビで決勝のカードが「京都成章対横浜」って紹介された瞬間、本当に決勝へ行くんだなという実感が湧いてきました。それから、「あの松坂と試合ができる」というワクワク感も。ただ、京都成章はまだ甲子園で一度も勝っていなかったので、僕たちは「甲子園1勝」を掲げていた。甲子園で校歌を歌うことが目標で、相手を意識することなんてまったくなかったです。むしろ京都西もセンバツ出場、春は平安が近畿大会優勝で、僕たちは京都府内でもダークホースでしたからね。

ーー決勝は0対3で敗れ、松坂投手にノーヒットノーランを喫しました。今も球史に残る試合として語り継がれていますが、どう感じていますか。
澤井 それは本当に光栄なことです。負けて笑顔でいられた僕らと、負けていたら笑顔ではいられなかった横浜。その差があったと思うし、ノーヒットノーランをされたという恥ずかしさはないですね。逆に「あの松坂とやれた」ということが僕らには誇り。個人的な意見ですけど、松坂投手は(延長17回の死闘を繰り広げた)PL学園との準々決勝よりも決勝のほうが調子は良かったと思います。PL戦は動きがガチガチだったけど、決勝ではパーンと腕がしなって終盤でも140・台後半が出ていた。実は初回の先頭打者で僕は彼の球をジャストミートしていて、「打てるぞ」って思ったんですけど、だんだんキレが上がってきて、もう手も足も出なかったです。5回くらいからは「まだノーヒットだしヤバいな」と思っていました。試合には集中できていたし、僕らとしてはやり切ったんですけど、力の差がありましたね(苦笑)。ただやはり反省もあって、チームの中で速い球に対して「早く振らなきゃ」という錯覚があった。秋に出場した国体ではまた決勝で横浜に敗れるんですが、「ボールは待っていれば来るもんやから、しっかり狙い球を絞っていこう。三振はオッケーでフルスイングや」と言い合って、松坂投手から8安打しました。

ーーここでも、まさにチームが結束していたわけですね。
澤井 それと僕たちの中にはセンバツから続くストーリーがあって、エースの古岡基紀がセンバツの初戦、2回で降板して外野に回っているんです。そこでライトの田坪がベンチに下がり、打席に立つことができなかった。古岡はその責任をすごく感じて、センバツ後はずっと走り込んでいました。「古岡はどこへ行ったかな」って思ったら常に走っていたし、グラウンドから走って帰ったり、自主練で何キロも走ったり…。そして夏に京都を制したとき、みんなはワーッと喜んだんですけど、古岡だけ泣いたんです。アイツの成長は大きくて、夏の甲子園は全試合完投。決勝もあの横浜打線を3失点に抑えていますし、国体はスコアが1-2ですからね。あと実は、夏の決勝は3回までパーフェクトで、国体決勝は4回以降がパーフェクト。だから古岡も横浜相手に、2試合の合わせ技でノーヒットノーランを達成しているんですよね(笑)。


【転職してスポーツビジネスの世界へ カギは自分で考えて行動できるかどうか】

ーー高校卒業後は同志社大へ進み、社会人野球のかずさマジック(現・新日鐵住金かずさマジック)でプレーした後、スポーツマネジメントの会社に転職しています。学生時代から将来のことについては考えていたのでしょうか。
澤井 高校時代はプロ野球選手になりたかったんですよね。まず大学へ行って、レギュラーになってプロへ行こうと。実際、1年春からレギュラーで出させていただき、3年秋には関西学生リーグのベストナインも受賞させていただきました。ただ、僕は「野球だけやっている」という目で見られるのがイヤで、大学3年までに単位をすべて取ろうとも思っていました。僕がいた学部で一番難しいと言われていた必修科目も必死に勉強して、学年トップの99点を取ったり(笑)。「一般の学生に負けるか」という想いがあって、勉強はしっかりやっていましたね。  あと、プロ野球選手がダメだったらビジネスマンになりたかった。トム・クルーズ主演の『ザ・エージェント』を見て、スポーツの現場でスーツを着て働くことにも憧れていたんです。大学卒業後は社会人で野球を続けましたが、(ドラフト指名解禁となる)2年目でプロへ行けなかったら、野球を辞めてその後の仕事にシフトチェンジしようと思っていました。結局は4年目まで続けるんですが、やはりレベルの高い世界でレギュラーを獲ることはできず、自分の実力も分かってきた。ですから、その期間はビジネス書を読んだり、スポーツマネジメントの世界のことを調べたりもしていました。


ーーマネジメントの仕事をするきっかけは何だったのでしょう。
澤井 高校の先輩がたまたまスポーツマネジメントの事務所に勤めていて、「枠が空いたけどウチの会社に来るか」と誘っていただきました。入社した当時は飲食業の新店舗立ち上げに携わったりとか、観光業のビジネスなど、スポーツとは違う仕事をしていました。それでも「何でこんな仕事をしなきゃいけないんだ」という気持ちではなく、「今後は経験できなくなるかもしれないし、今のうちにこういうことを経験しておくのはいいことだよな」と。そうやって経験を重ねているうちに元・シンクロナイズドスイミング日本代表の武田美保さんを担当させていただけるようになり、スポーツの世界へ。さらに2009年にはメジャーリーグ挑戦を表明した上原浩治さんも事務所と契約し、僕が現場マネジャーとしてアメリカへ同行することになりました。それから2年ほど経ち、日本へ帰ってきたときに会社が2つに分裂。一方の会社でそのまま働いていたのですが、会社の都合もあって13年5月末に退職。そして同年8月9日、奇しくも“野球の日”ですが(笑)、自分で会社を立ち上げたわけです。

ーー起業するという考えは、もともと抱いていたのでしょうか。
澤井 会社を辞める前から、勉強して次のステップへ進もうかなとは思っていて、ちょうど13年4月から早大の大学院に通っていました。あと英会話も習っていました。と言うのも、一流アスリートをサポートするにあたって、マネジャーがただの荷物持ちになってしまってはダメなんです。アスリートの方々にも助言できて、向こうから信頼される人にならなければならない。日本のスポーツ界を良くするためには、裏方の人間がもっと成長しなければならない、と。将来的にはそういった人材の育成までしていきたいんですが、そのためにも大学院で学ぼうと思いました。そのタイミングでの退職だったので、すぐに次へと切り替えられました。上原さんには「お前と一緒にやっていくつもりだから独立したらどうだ」と声を掛けていただきましたし、元・水泳日本代表の萩原智子さんも僕のところに来てくれたので、とてもありがたいですね。また、2014年4月には元バレーボール男子日本代表の山本隆弘さんとも契約しました。

ーー今の仕事のやりがいは何でしょう。
澤井 スポーツに関わって仕事ができるということですね。13年に上原さんがワールドシリーズでチャンピオンになったときは、本当に感動しました。上原さんは渡米してしばらく、ケガにかなり悩まされていました。それでも「プロフェッショナルだなぁ」と感じるのは、彼は不安や重圧もあるはずなのに、どんな状況でもやるべきことを淡々と継続してやるんですよね。ハギトモ(萩原)さんや山本さんも同じ。そういうプロの方々の現場を近くで見られるのは魅力です。今の日本のスポーツビジネスの流れで言うと、おそらくボロ儲けをすることはできないでしょう。それにスポーツの仕事というのは、ちゃんとやらないと返ってこない。「どうにかして儲けよう」とか、セコイことを考えても上手くいかないんです。やはり誠心誠意という姿勢で取り組むことが大事だと思いますね。僕は「スポーツをデザインする」というのを会社のテーマにしています。スポーツとアスリートのキャリアをデザインする。現在はスポーツ選手が消費される世の中になっていると思っていて、たとえば数回前のオリンピックのメダリストとかって思い出せなかったりしますよね。活躍したときはメディアも取り上げますけど、終わった後ってなかなか追い掛けてくれません。僕はスポーツとアスリートの価値を、もっと社会に落とし込めるようにしたい。そういうスポーツビジネスの可能性を創り出していくのは楽しいですね。

ーー野球人生を振り返って、今の仕事に生きている部分もありますか。
澤井 野球が好きでのめり込むのは大事ですが、それが人生のすべてになってしまうと難しい。そういう意味では、高校時代に自分たちで考えて練習を工夫してきたこととか、大学時代に勉強にもトライしたことなどは良かったと思いますね。よく学生に話をさせていただく機会があるんですけど、僕はそこで「指導者ってアドバイスはしてくれるけど、人生の責任までは取ってくれないよ」と言います。指導者に指示を受けて厳しい練習を乗り越えたとしても、その先の人生では自分で考えて行動しなきゃいけない。最終的に自分で責任を持たなければならないからこそ、自分がどうしたいのかを考えることが大事なんです。

ーー最後に、若者たちへメッセージをお願いします。
澤井 たとえば高校野球には甲子園という分かりやすい目標がありますが、卒業後って意外と目標が見つかりにくい。僕はそういう子たちに対して、「目標はそう簡単に見つかるものじゃない。でも自分が取り組むべきことを面白くできるように工夫していれば、違う道が見つかるかもしれないよ」と言っています。そして大事なのは、自分がやりたいことに対して本気で取り組めているかどうか。今いる環境というのは、誰も変えてくれません。変えられるのは自分しかいない。まずは自分で考え、行動してもらいたいですね。


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