東京より30分ほど日の入りが遅い福岡でも、17時には日が沈む。
「ほらー、どんどん暗くなってくけん、はよ動け〜!」。
青野監督が大きな声を上げたのは、投内連係から打撃練習に切り替わるタイミングの時だけだった。練習の流れを止める「集合!」の号令はない。「自分たちの時は、集合が遅れて、罰走として走って、疲れて、集中できず、また集合!(笑)。そんな時代でした。あれでは、練習に身が入るわけがないじゃないですか」。
選手たちは短時間練習の流れが身に沁みついているのか、凄まじい速さでゲージを出し、ネットを張り、マシンを設置する。バックネットに向かって打つマシン打撃(1カ所)と、ティー打撃(5カ所)の準備があっという間に終わる頃、グラウンドは真っ暗になっていた。野球部用に設置してあるライトはわずか4灯。マシン打撃のエリアには、プロ野球OBから寄贈された移動式のLED照明が置かれていた。「これが本当に大活躍しているんです」と感謝を口にする。

選手たちは打撃練習班と、ウエートトレ班、(タイヤ引きなどの)体力強化班、ゴロ捕球班に分かれて、ローテーションで練習を回していた。選手に聞くと「日が落ちてからの時間は、自主練のような感じです。誰がどの練習をやるのかは自由で、各自が課題に合わせて練習しています」。室内練習場はない。環境面の不満は選手にはなく、むしろ「この環境が良くて」入学した選手がほとんどだ。



選手が自主的にメニューを決めるやり方は、青野監督が2年前、二度目の母校監督就任した時から取り入れている。「昔はどこも、ガンガン練習するやり方が主流でしたが『監督が何も言わなくなったらどうなるんだろう?』と思ってやってみた。自分で考えて動かないと、身にならないんですよね」。外野手の練習をするため、夏の大会前に市内の野球場を借りることもあるが「うちはこのやり方が普通です。この子たちが勝ってきたのは、やはり甲子園での経験が1番大きいのだと思います」と、石田―北村バッテリーを中心とした甲子園経験者5人の存在に目を細める。
夏の甲子園では、初戦で済美に敗れ「反省」を持ち帰った。松山智乃助主将(2年)は「夏の甲子園ではパワーの違いを感じたので、スイングの質や形にこだわって練習をしています。私学の強豪校のように練習時間が十分にあるわけではなく、日も短くなっているので、何回も練習ができるわけではない。量ではなく、質を意識して1回1回集中して練習しています」。足りない練習は家での自主練で補っているそうだ。勉強時間は?と聞くと「毎日2時間くらいですかね。勉強も野球も、いまは時間が足りないです」と笑顔で話した。

グラウンド整備と、短いミーティングを終えて完全下校。20時に照明が消えて、グラウンドが真っ暗になった。全員が自宅から通っており、このあと塾に通う選手もいると言う。
「このあと帰って勉強かぁ。もう少し野球がやりたいな」
そう思いながら練習が終わるような雰囲気だ。

「こういう環境は、他と少し違うかもしれないけれど、うちはこんな感じでやっています」
環境を言い分けにしない。それが東筑の選手たちの誇りだ。
センバツ出場校の発表は来年の1月26日。朗報を待ちながら、冷静かつ、着実に。自分の課題に取り組む。
【この日の練習メニュー(火曜日)】
15:15 6限が終了
15:45 グラウンドで練習が開始。キャッチボールのあと、選手全員で投内連係を含めたノック(無死走者なし、守るポジションは選手が自分で選択)
16:35 グラウンド整備
16:40 投内連係を含めたノック(走者あり)
17:15 (日没)グラウンド整備。
17:20 打撃練習(マシン1カ所、ティー5カ所)打撃練習の班以外は、空いたスペースを使い自主練(タイヤ押し、ゴロ捕球、ブルペン投球、ウエートトレなど)
19:30 練習終了。グラウンド整備
20:00 消灯。完全下校
東筑高校
1898年(明治31)創立、1900年(明33)創部。文武両道、質実剛健が校是。部員数2年=25人、1年=18人。女子マネージャー=5人。山本哲也部長(52)、青野浩彦監督(57)。甲子園出場は春2回、夏6回。全日制普通科(共学)。スーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定校。主なOB=仰木彬(元オリックス監督)、高倉健(俳優)、福山龍太郎(元ダイエー)、大村孟(ヤクルト育成)ほか。所在地=北九州市八幡西区東筑1-1-1
青野浩彦(あおの・ひろひこ)
1960年(昭35)6月29日生まれ。福岡県北九州市出身。東筑―筑波大。高3夏に主将、捕手として甲子園出場。大学卒業後、保健体育教諭として北九州監督に就任。94年4月に母校で副部長、監督として16年指導。96年夏、98年センバツ出場。鞍手を経て16年から再び東筑の監督に就任した。