著書 『ピッチングマニア』にて、自身の投球術を詳細に紹介している山本昌氏。
タイムリー編集部では本人の素顔を知る、関係者二人にインタビューを敢行。二人目は日大藤沢高校時代の先輩であり、現在は前橋育英高校野球部を指揮する荒井直樹監督に話を聞いた。
本当の一流選手は、自分で決めたことを真面目にコツコツと取り組める人間
マサは日大藤沢高校の1年後輩になります。彼のプロでの活躍は、私にとっても大きな励みになっていました。
昨年10月の引退試合は、たしかCS放送で中継があったと思うんですが、家のテレビでは映らなかったので、近くに住んでいるコーチにお願いして、「打者ひとりだけ見せてくれ!」と一緒に観戦。最後に投げている姿を見て、ウルッときましたね。
昔から、「多少やんちゃな方が、プロでは活躍できる」といわれることがありますが、私自身は「本当にそうなのかな?」と感じていました。本当の一流選手は、自分で決めたことを真面目にコツコツと取り組める人間ではないかと。性格は悪いより、いいに決まっているし、生意気よりは素直のほうがいいですよね。
そういった意味では、マサはいいやつで素直。気遣いも心遣いもできる。そういう選手が長く活躍してくれたのが、本当に嬉しいんです。ただ、野球がうまいだけの選手だったら、あそこまで長くはプレーできなかったと思います。
当時、1年生で高校に入学してきたときは体が細くて、周囲からは「あしながおじさん」と言われていました。たぶん、高橋光成(前橋育英高校~埼玉西武ライオンズ)の高校時代より細かったんじゃないですか。今の体型からは想像がつかないですよね。
ピッチングは、コントロールがよくて、キレもある。正直、球が速いという印象はありません。プロに行くときに、「3年でダメなら帰ってきます」と言っていたんですけど、それが32年続けられた。ここまでやれるなんて、誰も思っていなかったと思います。
実はドラフト会議の前に、私がプレーしていたいすゞ自動車の練習にも参加しているんです。おそらく、ドラフトにかからなければ、いすゞでプレーしていたのではないでしょうか。そのときに久しぶりに間近でピッチングを見ましたが、キレもコントロールもよくなっていたのでびっくりしました。
春の大会で横浜商業に負け、その日から続いた二人でのランニング
高校時代のことで、今でも思い出すのは3年春の大会です。私が3年で、マサが2年。準々決勝で横浜商業に4対14で負けてしまいました。初回に4点先制して、最高の流れだったんですけど、先発した私が打たれて、二番手のマサも打たれて、またマウンドに上がった私が打たれて……。これは夏の大会もヤバイぞ、と思って、負けたあとすぐに「次の日から走ろう」とマサに声をかけたんです。
6キロぐらいだったと思うんですけど、その日からマサと一緒に学校の周りを走るようになりました。初めは話しながら走っていたのですが、途中からは競走になって、最後は負けたくないから2人とも真剣になって走っていましたね。
夏は私が背番号「1」でマサが「10」。1回戦から、マサ、私、マサ、私、マサというローテーションで、準々決勝でまた横浜商業と当たり、リベンジ叶わず負けました。私はそれまで2試合連続でノーヒットノーランをしていて、今でもマサから「最後の試合、投げたかったんじゃないですか?」と聞かれますが、そういう気持ちは一切なかったです。マサもいい球を投げていましたし、普段の練習にしっかり取り組んでいましたから。
負けたあと、マサは今までこんなに泣いたことがないというぐらい泣いていたようです。「荒井さんに申し訳ない」と。でも、私もマサがいたから、あそこまで勝ち上がれたと思っています。
ちなみに、当時の横浜商業には小倉清一郎さん(元横浜高校コーチ)がコーチに入っていました。あとから知ったことですけど。
後編に続く
荒井直樹(あらい・なおき)
1964年8月16日生まれ、横浜市出身。日大藤沢~いすゞ自動車。高校ではピッチャーで活躍し、3年夏には2度のノーヒットノーランを達成。1学年下に山本昌氏がいた。社会人4年目から野手に転向し、13年間の現役生活で都市対抗野球に7度出場。96年から母校・日大藤沢の監督に就き、99年から前橋育英のコーチの就任。2001年に監督になると、13年夏の甲子園で初出場初優勝の快挙を成し遂げた。