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【Timely!アーカイブ】大谷翔平(花巻東)「ライバルに勝つ自己管理術」

2018.4.11

メジャーリーグでも「二刀流」で活躍し、大きな話題になっている大谷翔平選手(ロサンゼルス・エンゼルス)。「TImely!」では花巻東高校(岩手)時代の大谷選手に自己管理についてお話を聞いていました。当時から意識の高さが伺えるインタビューを振り返りたいと思います。


*2011年の「Timely!」16号に掲載された内容です

2011年夏の甲子園。岩手の本格派右腕として注目を浴びていた大谷翔平投手は、怪我を抱えていながら鮮烈な全国デビューを果たした。初戦の帝京戦では4番ライトで先発、2点リードの4回1死1、3塁から登板。初球に148キロ、さらに田中将大(楽天)に並ぶ甲子園での2年生最速タイという大記録・150キロを計測しスタンドを沸かせた。リードされては3度追いつく花巻東高らしい「粘りの野球」をするも、初戦敗退。しかし、大谷翔平の存在感は強烈に甲子園に刻まれ、2012年のドラフト候補としても注目されることに…。

菊池雄星(西武)に続き、岩手から超大物投手が誕生。成長を続ける逸材に「自己管理」というテーマで話を聞いた。

(取材・文・写真:武藤桂子 写真提供:武藤桂子、高橋昌江)

日々「日本一」を叶えるために自己と厳しく向き合う150キロ右腕

「野球日誌は、ずっと昔から自己管理のツールでした」

幼い頃から「プロ野球選手」が夢だった。小学2年の時に水沢リトルに入団し、本格的に野球をはじめたが、この時から夢実現のための「自己管理」はスタートしていた。

「強制ではないのですが、野球をはじめたときから父に勧められて野球ノートをつけていました」

社会人野球出身のお父さんからのアドバイスで、その日のメニューや簡単な反省を書くところからはじめた野球ノート。「チーム初の全国大会出場」という目標も立て、野球ノートに記した。中学1年のときにその目標を見事達成し、目標をクリアする喜びを覚えた。

一関シニア時代も「野球ノート」を継続。
「リトル時代よりももっと具体的に書くようになり、次の練習に向けてどうしたいといった内容も増やしました」

シニアでの目標も「全国大会出場」。全国で通用する投手を目指し、なりたい選手像をリアルにイメージした。目標とする選手の動画をみて、いい部分を真似するようにもなった。特に「全体的にきれいでかっこいい」と憧れていたダルビッシュ有投手(日本ハム)のピッチングは何度もみて、フォームの参考にした。

シニアでは、東北大会で負けて全国大会という目標は達成できなかった。
「当初は落ち込みました。でも対戦した選手と高校でも対戦するし、高校では絶対に負けた人達に勝とうと切り替えました」

ただ連盟の持ち回り制度で運よく春の全国大会に出場できることができた。その大会で優勝した世田谷西シニアと初戦で対戦し、全国レベルという貴重な試合も経験できた。

ちょうどその春、センバツで怪物左腕・菊池雄星を軸とした花巻東高が準優勝、その夏もベスト4という快進撃をみせ、大谷も刺激をうける。そして雄星世代が優勝できなかったことが、大谷にとってはある意味チャンスでもあった。

「自分たちの代で花巻東高を日本一にする!」

 新たな目標を持ち、新天地に挑んだ。

大谷の野球ノート。細かく書き記した後にペンでレタリングする

自己管理において一番大事なのは毎日の反省だと思います」

尊敬する大先輩から受け継いだ練習着。背中には「雄星」の文字が

念願の花巻東高に入学し、春からベンチ入り。早速打線の中軸を任された。

チームとして日本一を掲げ、自身では「エースになること」を目下の目標に掲げた。そして野球日誌はそれまで以上に自己管理や目標達成において大事なツールとなった。昔から続けてきた野球日誌に比べ物にならないほど、花巻東高で用意されていた日誌は内容の濃いものだった。

・その日の反省、明日への決意
・今後どういう選手になりたいかをより具体的に
・目標にしている選手
・県内ライバル、絶対勝ちたいライバル 

等々

さらに、それぞれの選手に指導担当の先輩がいて、毎日その先輩に提出しチェックを受けるため、緊張感もあるし、学ぶことも多い。
「先輩からは人間として様々なことを教わりました」と大谷も振り返る。

1年生のときはまだ「やらされている感」があったが、自身の成長を実感しながら、自然と野球日誌の必要性を強く感じていった。

「自己管理という面で一番大事なのは毎日の反省だと思います。日誌は間違いなく自分を成長させてくれるものです」

実体験を通じて必要性を強調。今ではカラーペンでレタリングなども行い、独自で日誌の書き方を工夫し、意識を高めている。

「食べること、体重を増やすことが今自分がやるべきことです」

入学当時から20キロほど増えてユニホームがきつくなるほど逞しくなった。

自己管理という部分では「食事」も大きな要素。入学した当初は65キロほどしかなく華奢だったが「いい投手になるためには体重を増やさなくては」と、毎日「食べる」こととの戦いがはじまった。

「自分は一番増やさなくてはいけない」と自覚し、ご飯・朝3杯、夜7杯と自分自身のノルマを決めた。もちろんおかずはほかの選手と変わらず、決して豪華なものではないが、ふりかけなどを用意し食べる工夫をして毎日大量のご飯を平らげた。さらに、朝食後、寮で余ったご飯を使っておにぎりを作り、学校の休み時間、ウエイト中、練習中などに1〜2個ずつ食べた。

『野球食(著・海老久美子氏)』などの本を読んで栄養学を自己流で学んだり、プロテインもウエイト後と寝る前に飲むなどして、とにかく体作りに専念。さらに、雄星投手や先輩達からアドバイスをもらい、アスリートに必要なカルシウムや鉄などのサプリメントも積極的に取り入れた。
その甲斐があり、ひと冬を超えた昨春には65キロから75キロに、さらに今では80キロを超え、理想の体重へと近づいている。

「今回の怪我が『自己管理がまだ足りない』と教えてくれました」

1年の秋からエースナンバーをもらい、ひとつの目標を達成したが、2010年・秋の東北大会は初戦で敗退し、2年春はセンバツを逃す。その後、3月11日の東日本大震災を経験した。

「あの震災を機に、これまでは『自分中心』なところがありましたが、『周りのためにできること』を考えるようになりました」という。さらに
「被災された方の励みになるよう絶対甲子園に行こう」そう強く誓った。だが、その矢先、県大会開幕2週間前に、怪我をしてしまう。

当初の診断は「大腿の肉離れ」だった。「大したことはないと思った」という痛みは長引いたが、その怪我を背負ったまま見事甲子園の切符を勝ち取った。そして甲子園で150キロの剛速球を投げて、衝撃的な全国デビューを果たした。

甲子園後、再検査をすると「左股関節の骨端線損傷」であったことが判明。「ケアの足りなさ・自己管理のなさが怪我につながったと反省しました」。

怪我という現実に落ち込んだが「プラスに考えないと、前に進めませんから」と意識を変え、身体のケアに関して、これまで以上に徹底して行うようになった。
「それまではトレーニングだけに意識がいっていましたが、ストレッチにもかなり時間をかけるようになり、お風呂上りも毎日行いました」

今では1日トータルで2時間以上はストレッチに割き、元々柔らかかった股関節や肩甲骨周辺が一層柔らかくなった。そして精神面でも大きな変化があった。「控え選手の気持ちがわかり、一層周囲に気配りをするようになりました」。

「やるからには上を目指せ」アスリートの両親に感謝

お父さんが社会人野球出身、お母さんがバドミントンの元国体選手という、アスリート一家の大谷家。「目標や夢は必ず持った方がいい」と幼少時代からアドバイスされて育った。目標達成することの喜び、できなかったときの悔しさ、両方を経験できたのも明確な「目標」を常に持っていたからだった。
「両親ともスポーツをやっていたので『やるからには上を目指して、プロを目指せ』と言われてきました」

幼い時から夢だった「プロ野球選手」になるために一つ一つ目標をクリアし、いまでは本当に「有力なドラフト候補」となっているから凄い。
「両親から『無理』という言葉を言われたことが一度もないんです。もし「おまえには無理」とか「プロ野球選手になんてなれない」と言われていたら、諦めていたかもしれない」 大谷は今、改めて両親に感謝している。

水沢リトルでは見事全国大会に出場。一関シニア時代は全国は逃すも、東北地方では「好投手」と名高かった。

 【Timely!アーカイブ】

大谷翔平(花巻東)「チームで日本一になるには個人として日本一にならなくてはいけない」

に続きます。

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