企画

連載野球小説 『天才の証明』 #27

2016.8.31


〜第27回〜

 二軍練習に復帰した火野周平がものの数分でグラウンドを後にした余波か、復帰から二週間も経つ頃には、鎌スタのバックネット裏スタンドはいつも以上に閑散としていた。

 火野周平は照りつける太陽の下で、地味なリハビリに明け暮れていた。火野は二軍に復帰以来、弱音を吐くことはほとんどないものの、思い通りに投げられない現状に苛立っているような表情を垣間見せていた。

「シューへ―サン、ゲンキダスヨ。ゲンキ、ゲンキネ。ドクターノイウコト、テキトーナコトオオイネ」

 アルバート・オルティスが怪しげな片言の日本語で火野周平に声をかけてきた。自慢の打棒が湿りがちで、二軍で調整中の大物助っ人外国人だ。ギャングあがりのラッパーのようないかつい風貌だが、顔に似合わぬ親しみやすい人柄と面倒見の良さが評判の選手である。メジャーリーグ時代は「ビッグ・パピー」の愛称で絶大な人気を誇った。

 一昨年に北海道ガンナーズに移籍してきてからはDH専任で一塁守備につくことは稀だが、相手投手との兼ね合いで過去数回守備についたことがある。ビッグ・パピーの愛称通り、内野守備は若い子供たちに任せたとでも言いたげな様子で一塁ベースに張り付いている文字通り不動の存在だ。お世辞にも上手とは言い難い守備である。捕球も雑で、送球もときおり後ろに逸らすので投手陣からはすこぶる評判が悪い。

 いつだったか、火野周平がライトの守備についたときの逸話がある。一二塁間を鋭く抜けた打球を処理した火野周平は、打者走者をライトゴロに仕留めようと自慢のレーザービームでファースト目がけて素早く返球した。一塁をのんびり守っていたオルティスは、火野が一塁に放ってくるとは夢にも思っていなかったのだろう。唸る剛球が自分目がけて飛んできたのを見て、思わず身をひねって避けたのである。

ボールがベンチ前を転々とする様を見て、試合後栗原監督は、「ビーンボールを咄嗟にかわすバッターのようだった」と妙に感心した様で、珍しくご機嫌なコメントを残していた。試合に勝ったからお咎めなし、という判断だったのかもしれない。

 ニ本塁打、五打点の活躍を見せヒーローインタビューに招かれた当のオルティスは、「DHハ、ヒマネー。ディフェンスシナイト、リズムノレナイヨ」とうそぶき、球場を沸かせた。もっと守らせろというアピールだったのか、あるいは単にジョークのつもりだったのか。真意は今もって不明であるが、DHに戻った翌週から打撃の調子を崩し現在二軍で調整中の身分である。

 袖なしのTシャツにハーフパンツ姿でメディシンボールに腰掛けて身体を左右に振っていた火野周平は、オルティスの言葉に鷹揚に頷いた。

「僕は元気だよ、パピー」

 オルティスが手に持ったファーストミットをパンパンと叩きながら言った。おもむろに捕球の構えをして見せた。

「シューへ―サンノレーザービーム、マタミタイヨ」

 火野周平はどこか寂しげな表情を浮かべた。

「そうだね。また投げれるようになったら、きっと、ね」

 その時は後ろに逸らさないでよと周平が言うと、オルティスが大笑いした。オルティスは不意に空を見上げた。どんよりとした厚い雲の切れ間から、わずかに青空が見え隠れしていた。

「ムカシノハナシ、スルネ」

 オルティスは昔を懐かしむかのように目を細めて、周平に話しかけた。

「ミーガシューへ―サングライノトシノトキネ。ドクターニドラッグ、モラッタヨ」

――薬物(ドラッグ)。

 オルティスの唐突な告白に周平は身を固くした。

「オモシロイホドウテタネ。デモ、イマハコウカイシテルヨ。ジブンノチカラ、チガウ」

 1990年代後半から2000年初頭にかけて、メジャーリーグではクスリを使って身体能力を向上させるドーピング行為が横行していた。薬物使用者に出場停止処分などの罰則を課し始めたのが2004年であるから、それ以前の薬物使用は厳密に言えばルール違反ではない。1994年に選手会の演じたストライキが原因でファンの野球離れが加速した際、派手なホームラン競争がファンの目をメジャーリーグに引き戻したという功績は否定できない側面でもある。

 メジャーリーグは2006年に薬物使用の罰則を強化し、現在では「一回目の違反で五〇試合、二回目で百試合、三回目で永久追放」という「3ストライクルール」が徹底されるに至っている。

 火野周平はメディシンボールに深く腰掛け、オルティスの話に耳を傾けた。オルティスは静かに話を続けた。

「シューへ―サン、ドラッグシテナイ。ゼンブ、トレーニング。スゴイヨ。ホントニスゴイコトヨ」

 きっとオルティスは自らの若き日の過ちを告白することで、〈作られた子供〉と中傷された火野周平を免罪しようとしているのだろう。薬物摂取は自らの意志だが、遺伝子の選別によって生まれてきた子供に本人の意志は介在しない。従って、生まれてきた子供に罪を問うのは話の筋目が違うと、そう言いたいのだろう。

「シューへ―サン、ゲンキダスヨ。ゲンキ、ゲンキネ。ドクターノイウコト、カンタンニシンジチャダメネ。シューへ―サン、マタナゲレルヨウニナルヨ。パピー、ヤクソクスルヨ」 

火野周平はしたたる汗を拭うような素振りで、顔をごしごしと拭った。

「ありがと、パピー」

 火野周平は分厚い雲に覆われた空を見上げた。心なしか青空が少し広がっているようであった。

(著者:神原月人)


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