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【富山第一高校】固定観念にとらわれず 打ち勝つ野球で日本一へ(1)

2016.4.19

13年夏の甲子園では初出場ながら、県勢40年ぶりの8強進出。その攻撃力の高さで知られる富山第一は“トミイチ”という愛称で親しまれ、富山県民から大きく期待されている。彼らが目指すバッティングに迫った。

一歩引いたところから選手を見て冷静に状況を分析する指揮官

 黒田監督の赴任当時、富山第一には決して県内トップクラスの選手が集まってはいなかった。そんな中、就任1年目の09年夏にいきなり県4強。翌10年夏には県準優勝と躍進した。だが、黒田監督はこう付け加える。
「能力の高い選手も来るようになったし、チームとしては大きかったのですが、僕自身はがむしゃらに大声を上げ、必死にやってきただけだった。3年目の11年には春夏とコールド負けを喫し、新チームになった秋の大会や1年生大会でも生徒に力を発揮させてやることができず、現実を突き付けられました」
 傍目から見れば安定して上位に勝ち上がってはいるのだが、いずれも後味の悪い負け方だった。そしてチームへの期待の裏返しから、多くの批判を浴びるようになる。だが、「これが転機になりました」と黒田監督は言う。
「人間って面白いもので、逃げ道を失うと最後に矢印が向くのは自分の内面。そして、周りに何を言われたっていいから、とにかく子どもたちと純粋に向き合っていこうと思った。そう考えたら精神状態が楽になり、一歩引いたところからチームや選手を見られるようになって、その先の展開なども読みながら試合に臨めるようになってきたんですよね」

甲子園で勝つことを目指し力勝負でも負けない野球を

 指揮官の転機を経た12年春、富山第一は北信越大会優勝を果たす。さらに12年秋から4季連続で県を制し、13年夏は甲子園8強。初戦が5対0、2戦目は8対0と圧巻の勝利で、敗れた準々決勝も延長11回の接戦。この活躍ぶりに、富山県民は大いに沸いた。
「甲子園に出るだけじゃなく、甲子園で勝つ野球にチャレンジしていきたいなと。私も富山出身ですが、富山県の子ってどこかに『どうせ自分たちなんか』という先入観があって、全国では通用しないと思っている部分がある。でも、富山の子たちが力勝負で圧倒する野球を目指したっていいじゃないかと。守りを固めるのが富山県の野球スタイルで、それはもちろん大事な要素なんですけれども、もし打ち合いの展開になったとしても対応できる野球をしていきたい。たとえば無死一塁なら犠打、という固定観念を持つ人は多いですが、走者が重圧を掛けて揺さぶり、相手バッテリーが警戒してくれれば必然的に外角直球が増える。打者がそれを狙い打ちして、長打で1点という野球をしてもいいと思うんですよね。攻撃の練習を増やしていき、それが少しずつ出来るようになってきました」

考える習慣をつけることが終盤の逆転勝利にも生きている

 昨夏の県3回戦、富山第一は5点ビハインドの9回表に7得点を挙げて勝利した。また昨秋の3位決定戦では0対5で6回終了も、後半3イニングで逆転勝利。実は後半にビッグイニングが生まれるのは、甲子園世代から続くチームの特長なのだと黒田監督は言う。
「選手たちにはよく、パズルゲームを解けと言っています。球種や配球パターンが多い投手ほど、『この球の後には何が来るんだろう』と考える。普段からそうやって1球ずつ考えるクセをつけておくと、試合の中で選手同士の考えがつながる瞬間が出てくるんですよね。そしてこちらがサインを出していなくても、選手たちが勝手にランエンドヒットなどを実践してうまく回っていく。僕の指示通りのことを徹底するだけでは、この爆発力は生まれないと思います。試合をやるのは選手たちであって、選手たちが何を見てどう考えるかという感性が大事。後半って精神的には苦しい場面ですが、野球は9イニングあるということを常に考え、トータルを考えてその流れを大事にすれば、試合は動くと思っています」


野球部・監督
黒田 学
1980年9月24日、富山県出身。現役時代は内野手。魚津高では主将として県8強。横浜国立大では3年時より学生コーチ。卒業後は富山第一高で5年間コーチを務め、2009年より監督。13年夏には甲子園8強に導いた。


SCHOOL DATA
富山第一高校(富山県)
●監督/黒田学 ●部長/真木彰壱 ●コーチ/国友賢司、浅野恭佑 ●部員数:81名(3年:選手22名、2年:選手23名、1年:選手35名、女子マネ1名)
1959年 創立の私立校。進学とともにスポーツも盛んで、日本代表の柳沢敦などを輩出したサッカー部は2013年に日本一。1960年創部の野球部も強豪として知られ、2013年には甲子園8強入り。



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