大阪桐蔭を倒さなければ甲子園への道が拓けない大阪で、「打倒!大阪桐蔭」に燃える9名の指導者に話を聞いた書籍「『絶対王者』に挑む大阪の監督達」(沢井史/竹書房)。この本の中から、前任の履正社時代は大阪桐蔭と共に「二強」時代を築いた東洋大姫路・岡田龍生監督の章の一部を紹介します。
ライバルの存在がチーム力を高める
準決勝で大阪桐蔭に9対2で勝利している。エースの岩崎峻典(現・東洋大)や小深田大地(現・横浜DeNA)ら19年の甲子園優勝メンバーを中心に層の厚い戦力を誇り、全国大会が行われていたら十分上位を狙えるチームだった。大阪の独自大会は日程の都合上、準決勝で打ち切りとなったが、もし甲子園が開催されていたら——。そんなもどかしい思いを抱えながら、履正社での指導は最終章に入っていった。履正社で指導した35年のうち、最後の10数年は大阪桐蔭とともに歩んできた。かつてPL学園という壁があったように、大阪桐蔭という壁をどう打ち破ればいいのか、そこに焦点を当てつつレベルアップに努めてきた。
「ただ、勝つにはこういう野球をしなきゃいけないとか、考えすぎるのは逆に良くありません。相手を意識しすぎるのはかえって悪い方にも転がってしまう。野球ってこれが正解、というのはないと思うんです。何でも結果論にしたら全試合で勝てますから。こんな考え方もあるし、あんな考え方もある、という風にこれから割り切っていきたいですね」
大阪桐蔭の西谷浩一監督については、ベンチ越しから采配を何十試合も見てきた。この春のセンバツは相手を猛打で圧倒して4度目の優勝を飾り、〝常勝軍団〟ぶりをあらためて見せつけられた。
「西谷監督は生徒へのアプローチがうまいですね。色んな経歴のある選手がいる中で、選手の高い鼻をどう折って指導するか。そのあたりをよく分かっておられます。センバツは、コロナ禍の影響で練習できていないチームも多かったですから、『だから大阪桐蔭はあれだけ打てたんや』という見方をされる部分もありますが、それでもああいったスキのない攻めができるのはさすがですよね。こちらとしては打つ方はもちろんですが、守備や走塁もきちんとしないと勝てません。まず打てる力を付けるために知識を得てトレーニングなどに力を入れて、僕はチームをあそこまで変えられた。そういうところでは大阪桐蔭に感謝したいですね」
いつか再び挑めるように
履正社では、コーチだけでなくトレーナーとも知恵を出し合い、長い時間をかけてチームを作ってきた。「これくらいのレベルの選手がいれば、どれくらいの打線が作れるというノウハウを身に付けられた」と岡田監督は言う。その指導力をこれから東洋大姫路でどう還元していけるか。「強力打線の東洋大姫路と言われるようになりたいんです」と甲子園で春夏計33勝を挙げている母校の復活に向け意欲を燃やす。これからは夏の地方大会で大阪桐蔭と戦うことはない。だが、センバツを目指す近畿大会では再び直接対決する可能性がある。「これから私の指導がどれだけチームに浸透していくのか。今は説明しながら選手や指導陣に教えていっている段階なので、まだ時間はかかると思います。どうなっていくんでしょうね……。僕の指導が伝わったチームになれば、履正社の時のような勝負ができると思います」
この夏から兵庫県で勝負する岡田監督には密かな夢がある。「指導者として、最後は進学校で指導してみたいんですよね。公立高校の先生ってよく『公立やから』って、おっしゃる方がおられますが、実際は公立とか私立とか関係ないと思うんですよ。〝公立やから〟工夫して練習しておられる学校さんも多い。僕もグラウンドがなかった時は工夫して練習していました。グラウンドができてからはあれこれ考えることは少なくなりましたが、なかったらなかったで、この空きスペースどうしようかとか、知恵を絞ることは大事だと思うんです」
大阪桐蔭との真剣勝負は、これからも続く。ユニホームが変わっても、いつか再び挑めるように。その下地を今は着々と作り上げている最中だ。
22年はひとつの戦いの終わりであって、新たな戦いの始まりでもある。
岡田龍生(おかだ・たつお)
1961年5月18日生まれ。大阪府出身。東洋大姫路では3年春に主将としてセンバツに出場しベスト4。日体大でも主将を務めたのち卒業し、鷺宮製作所でプレー。84年から桜宮(大阪)でコーチを務め、87年に履正社の監督に就任。19年夏に全国制覇を果たす。22年4月より母校・東洋大姫路の監督に。書籍情報
「『絶対王者』に挑む大阪の監督たち」著・ 沢井史
竹書房
定価1600円+税