学校・チーム

【鳴門】森脇稔監督から学ぶ「スター選手不在の公立校でも甲子園常連校になるために」

2019.12.19

これまで春夏合わせて20回の甲子園出場を果たし、優勝や準優勝の経験もある徳島県立鳴門高等学校。特に森脇稔監督が指導を始めた2007年からは、13年間で10回甲子園の土を踏んでいる。この甲子園常連校は、どのようなチームづくりをしているのでしょうか。


コーチ制の導入によりより細やかな指導へと転換

森脇監督が母校・鳴門高校の監督に最初に就任したのは、1985年から95年春まで。この時は1度も甲子園に手が届かなかった。「当時は私一人でチームの指導にあたっていたため、目の行き届かないところがあった」と省みる。その後に就任した徳島工業高校(現在の徳島科学技術高校)の監督時代には教え子にコーチを依頼。手応えを感じたことから、07年に鳴門高校の監督に再就任した時に、そのスタイルを引き継いだ。





監督室は、練習グラウンドを一望できるバックネット裏の2階にある。練習開始からしばらくの間はここから練習全体を見守る。「現在、ポジション別に5人のコーチがいますが、日々の細かい指導は彼らに任せています」と森脇監督。事前にコーチとのミーティングを細やかに行って強化方針を決定し、練習の進め方はコーチに権限委譲する指導体制を敷いているのだ。「お陰で、私は大局的にチームづくりに取り組めるというメリットが生まれました」と話す。
「僕たちが現役の頃は、監督はニコリともしない怖い存在でしたが、今は選手と冗談をいい合うことも。練習の厳しさは変わりありませんが」とコーチのひとり。規律を保ちながらも、コミュニケーションを取ることで、良い雰囲気を生み出そうとしている。

現有戦力で方針を固めてそれを具現化する練習を徹底

新チームの編成は4月に入学した1年生の様子を見た後、5月中旬からエースと4番打者を決めるところから始める。夏の大会の戦略を考えながらの同時進行だ。「うちのような公立高校では、スター選手は望めない。しかも翌春に入ってくる新人の力は未知数。個々の力を底上げし、束になって戦えるチームへと仕上げていくことが大事」と森脇監督。





そのためにも、「当たり前のことを当たり前にできる力」を身につけさせるための練習を徹底。特に、打撃面においては走者を進めるための確実なバントを、たとえ4番打者であろうとも繰り返し練習する。コツコツと愚直に。堅実なプレースタイルは「昭和の野球」とも呼ばれることもあるそうだが、それこそ本望だ。そこには校歌の一節「岩をも砕く不断の力」を体現する野球がある。

森脇監督のこれまでの歩み

森脇 稔 Moriwaki Minoru
1961年徳島県鳴門市生まれ。鳴門高校から法政大学へと進学。1985年から1995年まで母校で社会科教諭、野球部監督となる。2007年に鳴門高校に再赴任。以後、現在までに甲子園10回出場。

■1985年〜1995年
鳴門高校の野球部監督に就任。厳しい指導を行うも「選手に目が行き届かかなかった」と反省。
■2000年
徳島工業高校の野球部監督に就任。教え子にコーチを依頼し手応えを感じる。
■2007年
再び鳴門高校の野球部の監督に。甲子園を目指しコーチ制を導入し、人数を順次増やしていく。
■2010年
夏の甲子園出場を果たす。以降、2011年、2017年を除き甲子園へと勝ち進み、押しも押されもせぬ常連校に。


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