学校・チーム

【クラーク記念国際】「立ちはだかる"通信制"の壁」

2019.8.22

9人に満たない部員数、雑草だらけのグラウンド、ヤンチャな生徒たち、未曾有の災害……さまざまな困難を乗り越え、いかにして甲子園への切符を摑んだのか?
「Timely!」編集の『どん底からの甲子園』(辰巳出版)から、クラーク記念国際野球部の本書掲載内容の一部を紹介します。


「立ちはだかる"通信制"の壁」より

大きなカギを握っていたのは、やはり監督佐々木啓司の存在だろう。
北海道の高校野球関係者であれば、おそらく知らない者はいないのではないか。1978年より駒澤大学附属岩見沢高校の監督に就任し、学校が閉校となる2014年3月まで部長兼総監督の時代も含めて36年。その間で春8回、夏4回の甲子園出場に導き、1993年春にはベスト4。〝駒岩〟の名前を全国区に押し上げた名将だ。

ただ、実力校として知られていた駒大岩見沢とゼロから始まったクラークとでは、スタートの段階で選手のレベルが違う。佐々木いわく「各チームの1〜2番手の子はもちろん、3〜4番手の子も来るはずがない。5〜6番手の子が『どうしようかな』と悩むくらいの感覚」。したがって、基本的にはそれを下回る実力の子か、もしくは何らかの事情を抱えている子でチームを作るしかない。

にもかかわらず、大橋理事長から「今回は何年で甲子園に出る?」と問われたとき、佐々木は「駒大岩見沢では監督5年目の秋に道大会で優勝して6年目の春に出ました。じゃあ今回は3年ですかね」と返答してしまった。初めての公式戦となった2014年の春季大会空知支部予選1回戦では、攻撃で7安打を放つも内野の頭を越えるのが精一杯。守りではミスを連発し、滝川工業に0対9の7回コールド負けを喫した。試合終了後には「まずまずの結果で今後の希望が見えた」とコメントしたが、「今振り返ればあの言葉はウソだよね(笑)。内心では『かなりマズいぞ』って思っていたから」という。そもそも、部員数も現在では3学年で43人と揃っているが、最初の春はギリギリの状態だった。

新天地での指導に際しては、佐々木の次男で駒大岩見沢の最後の監督でもある達也(現・部長)がまず退職し、2013年末よりクラークの教員へ。ひと足先にチームを立ち上げ、準備を整えることにしていた。が、ここからが大変だった。とりあえず高野連に加盟するためにも在校生から部員を募集したのだが、希望者はわずか4人。さらに面談をしながら本気度なども考慮すると、合格となったのは1人だけだった。



当面は達也とその1人、立花奏夢のマンツーマンで練習が進んだ。と言っても、今でこそ旧・納内中の校庭を改修して甲子園球場と同サイズになった立派なグラウンド(2016年秋に完成)で練習できるが、当時は野球部専用のスペースがあるわけではない。場所はクラークの宿泊施設も備わって達也が寝泊まりをしていた「元気の泉キャンパス」のサッカー場やラグビー場。また当時の立花は通学が週3日で、放課後に練習をしても18時台の最終電車で帰らなければならなかった。人間関係のもつれによって転校を余儀なくされただけで、もともと別の学校の野球部には所属していた。しかし実力が抜きん出ていたわけではなくブランクもある。まして、達也も学校の会議や生徒募集などでたびたびグラウンドを離れる。そのときは立花が1人で黙々と体力検定のメニューや筋力トレーニングに励んでいた。

一方、新入生の募集もやはり〝通信制〟がネックとなり、困難を極めた。達也は最初のうちは北海道内を地道に回っていたが、それだけでは現実的に厳しい。そこで年が明けてからは、毎週金曜日の夜に新千歳空港へ向かい、最終便で東京や大阪、愛知などへと飛び立った。大量の名刺と学校のパンフレットにお土産も抱え、思い付くツテはすべて頼って片っ端からチームを訪問。また各地にあるクラークのキャンパスにも出向き、情報提供を呼びかけた。
(文・写真/中里浩章)

続きは本書よりお読みください



【掲載高校】

◎私立おかやま山陽高校(岡山県)
〜異色な指導で新入部員3人からの大躍進〜
「技術のある子」のスカウトをやめた時に転機が訪れた。
勝てない野球部を異色の経歴の指導者とスタッフが懸命に指導。
10年間で、甲子園出場、プロ野球選手輩出、部員100名を達成した苦闘の歴史。

◎私立下関国際高校(山口県)
〜廃部危機に追い込まれた野球部の下克上〜
部員の不祥事よって崖っぷちに立たされた野球部の監督に就任。
部員1人の時期も諦めることなく選手と向き合い、自分と向き合い続けた熱血指導者は、「弱者が強者に勝つ」をスローガンに戦う。

◎私立霞ヶ浦高校(茨城県)
〜9回の絶望の末に勝ち取った甲子園、その先にある未来〜
アウト1つ、あと1球、夢の舞台まで数センチのところにいながら、いつも勝利を逃してしまう。
立ち上がれないほどの絶望を味わいながらも、自問自答を繰り返し這い上がってきた監督とチームの物語。

◎私立折尾愛真高校(福岡県)
〜選手9人・ボール6球・グラウンドなしからのスタート〜
女子校から共学高になった翌年創部した野球部は、全てない・ない尽くし。 グラウンドも手作りして、チームの一体感が奇跡を起こす。
産みの苦しみから栄光を勝ち取った野球部が次に繋げるバトンとは。

◎私立クラーク記念国際高校(北海道)
〜通信制高校の創部3年目の奇跡〜
通信制の世間のイメージを覆す創部3年目の甲子園出場。
選手が集まらない、知名度がない、通信制という特殊な環境の中、かつて駒大岩見沢を率いた名将は、どのようにこの苦境を切り拓いていったのか。

◎県立石巻工業高校(宮城県)
〜大震災が残したもの、甲子園が教えてくれたもの〜
東日本大震災から8年。
2012年に21世紀枠でセンバツに出場してから7年が経った。
心に秘めるのは、あの時心を奮い立たせてくれた「野球への恩返し」。
監督も選手も野球の底力を信じて進む。



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