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【都立城東】甲子園に2度出場した都立の星が再び目指す「東京の頂」(前編)

2019.7.3

1999年夏に創部初の甲子園出場、2001年夏に都立高校として初となる2度目の甲子園出場を果たした都立城東。昨秋の東京都大会でも都立として唯一ベスト8入りを果たすなどその存在感は際立つ。チームの指揮を執るのは内田稔監督。自身の後輩であり、教え子でもある部員に何を伝え、どのようにして母校を18年ぶりに甲子園へと導こうとしているのか話を伺った。


文武両道を貫く「スポーツの城東」

JR総武線の亀戸駅から約6分、亀戸緑道公園を歩いていくと都立城東(以下、城東)の真新しい校舎が観えてくる。しかし、目に見える校舎はまだ建て替えの真っただ中であり、現在城東の生徒は仮校舎で授業を受けている。平日の16時頃には授業を終えた生徒たちが足早に部活動へ急ぐ。「スポーツの城東」と称されるほど、城東は運動部が盛んだ。サッカー、バスケ、バレー、陸上、薙刀(なぎなた)など、どの部にも力を入れているが、とりわけ目立つのは3学年で100名を超す野球部だろう。



しかし、そんな野球部も都立校で2度の甲子園出場という唯一無二の歴史を誇るが、練習環境というとけっして恵まれているものではない。グラウンドはサッカー、ソフトボール、陸上と他部活と共有な上に、学校のルールとして19時までに完全下校が義務づけられている。土日の練習でも午前中はサッカー部が使用するため、野球部は午後からしかグラウンドを使用することはできない。運動部が盛んという学校の特色が練習環境にも色濃く表れているのだ。

「昔はもう少しグラウンドを使える時間が長かったのですが……ただ、その部分は仕方ないことだと思います。グラウンド割は決められていますし、見ての通り限られた環境なのであまり変わった練習はできませんよ」と内田監督は話す。

このような練習環境でも、城東野球部に入部志願する生徒は非常に多い。だが、東東京の中でも倍率が高い人気校のスポーツ推薦枠は3名のみ。その枠も野球と勉強の両立ができる限られた生徒だけの狭き門であり、野球部の大半は一般入試で城東を受験した生徒たちだ。

「学校全体として大学進学率が90%以上と高く、現に部活と併用して予備校に通う生徒もいます。部活と勉強の両立が運動部の生徒には必然として求められるので、野球だけ……という生徒は厳しいですね。実際にリクルートは一切していません」。それでも毎年30名を超す部員数をキープしているから驚きである。

母校に戻ってきた甲子園の四番

内田監督は高校1年時にアルプススタンドで、3年時には四番・三塁手として憧れの甲子園に立った。在籍中に夏の甲子園に2度出場した過去を振り返ると「3年間で2度という結果だけみると、超強豪校ですね(笑)。あっという間に終わってしまいましたが。確かに僕が1年生の時の3年生は私学に引けを取らないくらい能力が高かったです。ですから、甲子園に行っても何の不思議もありませんでした。でも、僕らの代はというと……ちんちくりんな奴ばかりでしたよ(笑)。あれを奇跡と呼ばずに、何が奇跡だって思うくらいに。ただ、苦しい戦いを乗り越え、ベスト8まで勝ち進んでいくうちに、徐々に行けるかもしれないという自信はでてきましたね」。



高校卒業後は野球選手として更なる高みを目指し、明治大学に進学。だが、全国から有望選手が集まるなかで、思うような結果を残すことはできなかった。

「選手として芽が出ず、一軍にかするくらいしかできませんでした。続けていくうちに上のステージでは通用しないとわかり、昔から人に教えるのが好きだったので教師としての道を選択するようになりました。明治でも教員免許を取っていたのですが、どうせやるなら体育を教えたいと思い、順天堂大学の大学院に進み保健体育の免許を取り、2008年に都立高島に赴任したのが教師人生のスタートです」。

自身が都立出身ということもあり、都立校へ恩返しをしたいという強い気持ちもあったという。都立高島ではもちろん野球部の顧問を任され、都立足立東と経て、2016年から母校である城東に教師として戻ってきた。


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