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意志を通わせての「下半身・体幹強化」―東北楽天・則本投手の成長を促した、中村監督の指導法とは

2014.8.8

2013年のシーズンに新人ながら15勝を挙げ、東北楽天イーグルス初の日本一に大きく貢献した則本昂大投手。今季も7月末現在で18試合に登板し9勝をマーク。ヤンキースへ移籍した田中将大投手に代わりエースとして活躍している。その則本投手を三重中京大(※現在は閉学)時代に指導していたのが、今回登場の中村好治監督だ。今年4月からは三重高の監督に就任し、さっそくチームを夏の甲子園出場に導いた経験豊富な指揮官に、則本投手の事例を踏まえながら指導のポイントをうかがった。

「アーム式フォーム」という欠点

 三重中京大に入学してきた則本投手を見て、当時コーチだった中村監督は、フォームの欠点をすぐに見抜いた。投げる際にヒジをたたむことができず、棒のように腕が回る、いわゆる“アーム式”のフォームである。この投げ方は球がバラつきやすく、変化球もすっぽ抜けてしまう傾向が強い。則本投手もその典型だった。

 原因は下半身の弱さにあった。「ボールを握っている右手首をテイクバックで下ろすとき、本来は右太腿のやや外側に位置させます。しかし則本の場合は下半身が弱くて、投球フォームの際にしっかりと軸足で立てず、体がすぐに前へ突っ込んでしまう。したがって(右大腿の外側に右手首を溜めておく余裕がなく)右手首が体から大きく離れてしまうんです。その結果、腕が伸びたまま回ってしまう“アーム式フォーム”になっていたのです」(中村監督)。

大学生時代の則本昂大


こうして、中村監督と則本投手本人の“共同作業”によるフォーム改良が始まった。「どれだけ指導者が良いことを言っても、信頼関係がなければ選手はうまく受け入れることができないと思うんです」と話す中村監督は、常日頃から指導者と選手のコミュニケーションを非常に大切にしてきた。則本にも欠点を説明し、本人にも考えさせながら、意志を通わせつつ歩みを進めていった。

下半身と体幹の強化が飛躍のカギに

“脱・アーム式フォーム”を実現するためには、投球フォームで「(体が)前に流れず、しっかりと軸で立つ」ことが肝心だという結論に至った。アーム式を直すとなると、大抵の指導者はヒジの使い方に目がいきがちだが、無理矢理ヒジをしならせようとすると則本の持ち味である「力強い腕の振り」そのものが消えてしまうおそれがあり、それは避けた。

 そのために、下半身と体幹の強化に取り組んだ。まずは短距離ダッシュ。ただ単に長距離を走るだけではなく、瞬発力や速筋が大事だから、短距離ダッシュに重点を置き、季節関係なく毎日の練習メニューに組み込んだ。また、体幹トレーニングにも力を入れた。

「スタビリティ・トレーニング」と呼ばれる、主に静止した状態で体幹を鍛えるプログラムを実施。たとえば、組体操の「扇」の両端のような体勢を数秒間キープするなどだ。サッカーの長友佑都選手も同様のトレーニングを取り入れ、パフォーマンスアップを図っている。則本投手は投球練習後や空き時間に連日1時間弱。体の内側の“インナーマッスル“と呼ばれる筋肉を地道に鍛えていった。

 また「日々の遠投を大切にしなさい」と中村監督は口酸っぱく話した。遠投で軸足にしっかりと体重を乗せ、球が左右にバラつかないよう意識させる。逆に、遠くに投げようとむやみに力んだり、必要以上に助走に頼って投げてしまうと、腕と体が離れ、球も抜けてしまうことになる。ポイントを明確にして遠投を繰り返させた。

現在は三重高の監督を務める中村好治氏


 こうしたシンプルな練習の積み重ねが功を奏し、太腿の裏側の筋肉(ハムストリングス)などが強化され、左足をしっかり引き上げ、かつブレなく軸足で立てるようになった。コントロールもまとまり、球の質も向上。入学当初は苦手だった変化球も操れるようになったという。大学時代に自らの欠点に向き合い、地道に体の土台を作り、継続したトレーニングを行ったことが、今の則本投手の飛躍につながっている。

 同時に、指導法の観点からみたとき、中村監督と則本投手の関係も一つの大きなヒントを与えてくれる。指導者がフォームの欠点を冷静に分析し、選手と話し合いながら、下半身・体幹強化の重要性を伝えていくことができれば、選手本人は納得してトレーニングに取り組めるし、吸収する度合いも違ってくる。

 よく「投手は走り込みが重要だ」などと言われるが、なぜ重要なのかという本質を指導者が選手に伝えられていないことが現場では多いとも聞く。選手と認識を一致させ、旺盛な野球欲、やってみようという姿勢を引き出してきた中村監督の姿勢も、球界を代表する剛腕を生んだ要因の一つでもあった。

〈文=水谷豊(スポーツライター)〉

【監督プロフィール】

中村好治:1954年生まれ。社会人野球の鐘淵化学、神戸製鋼などで39歳までプレー。現役引退後は中学生シニア・ボーイズリーグなどを指導し、社会人野球田村コピーの監督に。その後日章学園(宮崎)監督として2002年に甲子園出場。三重中京大コーチ・監督を経て2014年に三重高監督に就任、この夏の甲子園にも出場する。



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