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【東日本大震災から10年】本当のふるさとを求めて~志津川高校野球部の思い出~

2021.3.11

10年前。当たり前だった日常、当たり前にいた家族、友達、ペット、当たり前だった景色が一瞬のうちに無くなり、東北の沿岸部は荒地となってしまいました。多くの人が亡くなりました。そして今も、行方不明者の捜索、震災関連死など、災害は終わっていません。連日、新聞、テレビなどで東日本大震災を振り返る報道や特集が組まれていますね。毎年この日は、私も胸が詰まる思いです。今日は被災地に思いを寄せて、心を鎮める日にしたいと思います。家族みんなで、防災を考える日にしてもいいかもしれませんね。未来に続く「3・11」にしたいものです。


きょう3月11日14時46分、皆さんはどこで何をしていますか?

息子みたいに愛おしい高校球児に出会いました。2015年、震災から4年が経った夏でした。志津川高校野球部の2年生11人。「佐藤君」が3人、「三浦君」が4人、スタメンが並ぶとオリオン座みたいになるチーム。同じ地元で生まれ育った兄弟のように仲のよいチームで、彼らは強い絆で繋がっていました。小学6年生のときに津波で家が流されたり、大切な人を失ったり、悲しいことがあったけど、野球のお陰で前を向くことができました「ボールを触っているとつらいことを忘れられる」。そう話してくれました。2015年夏は宮城大会で夏16強。仙台育英に三盗を絡めて先制するなど、アッと言わせるプレーで観客を沸かせました。負けん気の強い選手たち。1975年夏、東北大会準決勝に進出した「志津川旋風」を思わせる堂々とした戦いぶりでした。
 
 彼らの練習を見に行くのも好きでした。仙台から電車とバスを乗り継いで約2時間半。当時はグラウンドの半分が仮設住宅のスペース。高いネットを越えて打球が住居に飛んでいくこともありました。不自由な野球環境だったけど、住民さんは「どんどん飛ばして大丈夫だよ。野球頑張って」と、彼らをいつも応援してくれていました。試合のときは手作りの旗で見送りもしてくれました。彼らの「がんばる」につながったことは言うまでもありません。
部員の一人の仮設住宅にお邪魔させていただいていた時はびっくりしました。トイレまでが5歩という狭いスペース、薄い壁で、冬は寒く、プライバシーがない空間。それでも「みんな、つらい思いは一緒ですから」と、愚痴を一切いいませんでした。震災直後から、私は何もできず立ち止まっていましたが、彼らは当時の話を真摯に話してくれました。卒業のときには「お母さんみたいな存在」と言ってくれたりもしました。「震災取材」というものを初めて経験させていただきました。かけがえのない、彼らとの2年間でした。

 志津川高校卒業から4年-――。
いま彼らは、社会人としてそれぞれの場所で頑張っています。夏16強の立役者、元エースの三浦優君は宮城県庁に勤務。消防士になった子、実家のサケ養殖業を継いだ子、理学療法士、トレーナーになった子、みんな夢を叶えています。4年前「県民目線で宮城の復興を完了させる」と言った優君。いまは税の担当で、直接復興に携わることはないけれど「いつか僕らの世代で完了させる。10年じゃまだ足りない」と言います。町にキレイな商業施設ができ、道路ができて感謝でいっぱいだけど、いまの南三陸の景色は子どものころに見た景色とは、やっぱりどこか、なんか、違う…。「してもらった復興」から「自分たちの復興」へ。10年、20年、それ以上の時間をかけて築いていってくれることでしょう。そのことが、いまの希望です。


2021年3月5日の志津川湾の風景。道路ができ、町はキレイに整備された。だけど…。ここで育った志津川野球部の子どもたちは「本当のふるさとを、取り戻したい」という思いを胸に秘めている。(撮影/出井健一郎)


 あの日、牙をむいて襲ってきた志津川湾は、いまはとても穏やかです。明るい未来が戻ってきますように。静かに、そっと祈ります。(文/樫本ゆき)


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