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【霞ヶ浦】2008年、あと1球から始まった悲運

2019.8.20

9人に満たない部員数、雑草だらけのグラウンド、ヤンチャな生徒たち、未曾有の災害……さまざまな困難を乗り越え、いかにして甲子園への切符を摑んだのか?
「Timely!」編集の『どん底からの甲子園』(辰巳出版)から、霞ヶ浦高校野球部の本書掲載内容の一部を紹介します。


「2008年、あと1球から始まった悲運」より

高校野球ファンなら知る人も多いと思うが、時を大きく遡れば、高橋祐二監督は高校野球の指導者になる前の19年間、男子バレーボール部の監督を務めていた。日体大を卒業し教員として赴任したとき、野球部のスタッフの椅子はすでに埋まっていたための代替え措置。その間の紆余曲折、思い出の出来事は後述するとして、本業である野球の指導に携わるようになったのが2001年のことになる。つまり甲子園への挑戦権を得たのは、40歳を過ぎてからだった。

「野球部を立て直してほしいとの校長命令。僕がこの年、監督としてバレーの全国大会である春高バレー(全国高校バレーボール選抜優勝大会)に初出場を果たした直後です。選手たちとの結束も固く、このままバレーで終わってもいいと思っていただけに胸中は複雑。後ろ髪を引かれる思いで野球部に移りました。ところが、鬼軍曹が来ると聞いて、それまでいた部員の多くがいなくなっちゃった。当時はそんな緩い野球部。でもだからといって不思議と焦りはなかったですね」

それは、バレーボールを指導してきたからこその経験が生きたという。プレーした人間ではないので、どんなに熱血指導をしたとしても高い技術を選手に伝えることは難しい。そんな自分でいることを自らに許さなかった高橋監督は、バレーの強豪校に出向き、名だたる指導者に教えを乞う。そしてさらに心を砕いたのは、どうやってそれらを選手に伝えるか、だった。

「指導者にとって、伝え方がいかに大事かということをバレーで学んだんです。若いころに野球の監督になっていたら、どこかの監督みたいに、何でできないんだと怒ってばかりいたかもしれません」
今度の監督は何かが違う。選手たちはきっとそう思ったに違いない。技術や野球に対する考え方を教えるのはもちろん、日々の生活を正すことにも時間を費やし、そんな中で迎えた1年目の夏、初陣を飾ってまず1勝。その後3年間は初戦敗退を繰り返したが、チームに変化が表れたのが5年目だった。



春と秋、ベスト4。夏はベスト8ながら、翌年にはベスト4入りを果たす。2007年秋にはついに県を制覇(チームとして18年ぶり2度目の優勝)して関東大会へとコマを進め、準々決勝で聖望学園(埼玉)に敗れて翌春のセンバツ切符は得られなかったが(補欠校に選出)、上昇機運に乗って迎えたのが2008年夏の第90回大会である。
すべては「たられば」だが、振り返るとこの一戦で一気に甲子園出場を決めていたら「流れ」は変わっていたかもしれない。夏の決勝戦に初進出した霞ヶ浦が甲子園出場をかけて戦ったのは、木内幸男監督率いる常総学院。試合は2対1と終始押し気味の霞ヶ浦リードで最終回を迎え、あとアウト1つまでこぎつける。甲子園はもう目の前だ。
だが、一死後、満を持してマウンドにあがったリリーフ投手が2ストライクまで追い込みながら打たれ、同点に。延長戦に突入し、10回裏、常総学院の犠牲フライによるサヨナラ勝ちで決着はあっけなくついた。

試合後高橋監督は、投手交代の是非についてマスコミや知人らから問われ続けたが、すべては2人の投手を熟知したうえで判断したこと。外野にとやかくいわれる筋合いはない。しかし結果がすべてのこの世界で、惜しい敗戦となったこの試合をきっかけに高橋監督は悩める人になっていく。ダンディで男前のマスクが、苦しそうに歪む。そんな表情を見て、思わずかける言葉を選んでしまった人も少なくなかったことだろう。
(文・写真/藤井利香)

続きは本書よりお読みください



【掲載高校】

◎私立おかやま山陽高校(岡山県)
〜異色な指導で新入部員3人からの大躍進〜
「技術のある子」のスカウトをやめた時に転機が訪れた。
勝てない野球部を異色の経歴の指導者とスタッフが懸命に指導。
10年間で、甲子園出場、プロ野球選手輩出、部員100名を達成した苦闘の歴史。

◎私立下関国際高校(山口県)
〜廃部危機に追い込まれた野球部の下克上〜
部員の不祥事よって崖っぷちに立たされた野球部の監督に就任。
部員1人の時期も諦めることなく選手と向き合い、自分と向き合い続けた熱血指導者は、「弱者が強者に勝つ」をスローガンに戦う。

◎私立霞ヶ浦高校(茨城県)
〜9回の絶望の末に勝ち取った甲子園、その先にある未来〜
アウト1つ、あと1球、夢の舞台まで数センチのところにいながら、いつも勝利を逃してしまう。
立ち上がれないほどの絶望を味わいながらも、自問自答を繰り返し這い上がってきた監督とチームの物語。

◎私立折尾愛真高校(福岡県)
〜選手9人・ボール6球・グラウンドなしからのスタート〜
女子校から共学高になった翌年創部した野球部は、全てない・ない尽くし。 グラウンドも手作りして、チームの一体感が奇跡を起こす。
産みの苦しみから栄光を勝ち取った野球部が次に繋げるバトンとは。

◎私立クラーク記念国際高校(北海道)
〜通信制高校の創部3年目の奇跡〜
通信制の世間のイメージを覆す創部3年目の甲子園出場。
選手が集まらない、知名度がない、通信制という特殊な環境の中、かつて駒大岩見沢を率いた名将は、どのようにこの苦境を切り拓いていったのか。

◎県立石巻工業高校(宮城県)
〜大震災が残したもの、甲子園が教えてくれたもの〜
東日本大震災から8年。
2012年に21世紀枠でセンバツに出場してから7年が経った。
心に秘めるのは、あの時心を奮い立たせてくれた「野球への恩返し」。
監督も選手も野球の底力を信じて進む。



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