1942年の「幻の甲子園」を含めて夏“4度”の甲子園出場を果たした仙台一に朗報が届きました。元野球部の3年・大友剛投手が東京大学の文科2類に現役合格をしたのです。夏の独自大会で背番号12を付けて34年ぶりの夏4強入りに貢献した大友投手。野球部を引退しても「挑戦し続ける大切さ」を後輩たちに残しました。復興ボランティアの取り組みとともに紹介します。
来年で創立130年になる仙台一高で、野球部から「3世代連続」の東大合格者が出た。夏の独自大会で背番号12をつけた大友剛さんだ。大友さんはサイドスローの控え投手で、千葉厚監督いわく「試合のポイントで重要な役目を果たす投手」。昨夏・準決勝の仙台育英戦に3番手で登板し、楽天に入団した4番・入江大樹選手とも対戦をしている。
3点ビハインドの5回表。一発を警戒しながら先頭の入江選手にインコースを攻めたが、結果は死球。1イニング無失点に抑えマウンドを降りた。チームは1-7で敗れたが34年ぶりの夏4強入り。試合後は「楽しかったな」、「やり切ったな」と仲間の健闘をたたえ合った。大友さんは4月から念願だった東大野球部へ入部する予定。甲子園と東大。両方を目指した高校野球に悔いはない。
「抑えたかった。大学ではもっと精度の高い球を投げられるように努力しないといけませんね」。電話取材で大友さんはプロ注目の強打者を打ち取れなかった悔しさと、大学野球への意欲を語った。文武両道で終えた高校野球。一体どのように両立を果たしてきたのだろうか?
「(コロナ禍で)休校になったとき、千葉先生(監督)から『東大を目指さないか?』と言われました。大学でも野球を続けたいと思っていたのですが、やるなら東大野球部を目指してみようかなと思った。2つ上の先輩、鈴木健さん(東大野球部・新2年)の存在も大きい。勉強はもともと好きだったので、勉強で日本一を目指すのもいいなと思いました」。
「野球を辞めて受験勉強にシフトすべきか?」。
仙台一も他の高校と同じように休校中に3年生で意見がぶつかった。この時に大友さんは「野球は辞めない。勉強も続ける」と決断。3年生20人が同じ思いを共有し、夏の独自大会を戦った。仙台一には「自発能動」という標語がある。苦しみながらも自ら考え、主体的に動くという目標だ。大友さんだけでなく、20人全員が行動で示し、結果を残した。
千葉監督は「野球部としては、昨年一浪で合格した鈴木君、昨年の関戸悠真君に続く3世代の東大合格です。野球を引退したあとも目標に向かって努力を続ける。先輩の姿を後輩たちがしっかりと見ていたと思います」と話した。
仙台市内で甚大な津波被害に遭った野球部グラウンド
繋げていきたい思いは、他にもある。震災復興への願いだ。あまり知られていないが、仙台市内でも甚大な津波被害に遭った地区がある。若林区荒浜地区だ。「仙台市荒浜で200~300人の犠牲者を発見」という、耳を疑うニュースを覚えている人も多いだろう。あの地区から3キロの場所に、仙台一の野球部グラウンドがあった。そして10年前、津波被害に遭っている。近隣の市立荒浜小学校は震災遺構となって当時の惨状を伝えているが、当時、津波に荒らされたグラウンドにはヘドロだけでなく自動車などの漂流物が散在し、野球どころではない状態だった。部室の木製ドアには、胸の位置まで浸水した津波の跡が今も残っている。当時、監督をしていた建部淳副部長から、選手と千葉監督は多くの学びを得てきた。
昨年11月。東部沿岸地区の復活を目指す「ふるさとの杜再生プロジェクト」に野球部が初参加した。海岸に植樹した防災林・防風林の雑草抜きなどの手入れを地域住民とともに行い、復興を願う取り組みだ。木が育つのは20年後、いや30年後とも言われている。選手たちは未来を想像しながら力仕事に没頭した。
佐藤颯大主将(新3年)は「作業はすごく楽しかった。10年経った今、私たちは普通に練習ができていますが、震災の記憶を思い出し、教訓にしていかなければいけない。一高を卒業したあとも、この土地に来て、防災林の成長を見守っていきたい」と目を輝かせた。
震災が起こった3月11日、14時46分、選手たちはグラウンドで黙とうをささげた。復興への願い。震災10年という年にスタートした野球部の取り組み。ここにも「自発能動」の精神があった。勉強も野球も復興も100%で取り組む野球部。それが仙台一高だ。
(取材・文/樫本ゆき)
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