企画

連載野球小説 『天才の証明』 #34

2016.9.23


〜第34回〜

「この記者の兄ちゃん、銀座のキャバクラだかクラブだかで喋ってた内容が録音されてて、それが逮捕の決め手になったそうじゃねえか。どこに耳があるかわかったもんじゃねえな」

 銀座界隈によく出没することで有名な司会のビリーけんじが、しわがれた声で言った。

「ええ。それに川村容疑者には火野選手を中傷した以外にも、現役のプロ野球選手を強請っていたり、引退した選手に架空投資詐欺を持ちかけたりといった余罪もあるとみて、警視庁が捜査しているようです」

 進行役の宮内アナウンサーが淡々とした口調で補足した。司会のビリーと宮内アナはゲストを置いてけぼりで好き勝手に会話をしていたが、宮内アナはスタジオ内を物珍しそうにきょろきょろと見回している白髪の男性を紹介した。

「さて、本日のビリーのびりびりテレビ、ゲストは帝都大学大学院教授、芝野武文さんです。ご専門は運動生理学、トレーニング科学です」

「よろしくお願いいたします」

 自身の研究分野とは裏腹に、スポーツとは縁遠そうな痩身をチャコールグレーのスーツで包んだ芝野教授が挨拶をした。スタジオ内の空気が和らぐ、いかにも人の良さそうな毒気のない笑顔であった。

「芝野教授にご質問なのですが、火野選手が〈作られた子供〉であると中傷された事件によって、遺伝子ドーピングという言葉が世間的に有名になりましたが、そもそも遺伝子ドーピングとはどのようなものなのでしょうか。また、現時点において遺伝子ドーピングを行うことは可能なのでしょうか」 

 宮内アナが芝野教授に質問を浴びせた。

「まず遺伝子ドーピングとは、その名の通り遺伝子を操作することによって、筋肉の増強、血流の増加、持久力の強化といった効果をもたらし、スポーツ選手のパフォーマンスを向上させようとする行為です。いわば遺伝子組み換えアスリートを作る技術だと考えて頂ければ分かりやすいでしょう」

 芝野教授がゆったりとした口調で説明した。

「動物実験においては著名な成功例がいくつか報告されています。遺伝子操作によって通常のマウスの二倍の距離を走るようになったマラソンマウスや、筋ジストロフィーの研究をしていた際に、老化が進んでも筋力が衰えず、十分な強さを保ち続けるマウスが作出されたという報告が知られています」

 司会のビリーけんじが芝野教授に気軽な口調で質問した。

「そんで、マウスで成功したことは人間にも応用できるもんなのかい?」

「動物実験で効き目があったもので、技術的には人間にも使えるものがあると主張する科学者もおりますね。ただ、こうした遺伝子操作が人間にも適用できるかどうかはまだ完全には分かっておらず、生殖機能や寿命などへの影響も不明確です」

 芝野教授の物言いはあくまで柔らかい物腰であったものの、安易なる不正に手を染めないよう諌める警鐘のような内容であった。

「命の危険や未知の副作用などが潜んでいたとしても、実際に競技能力が向上するのであれば、遺伝子組み換えアスリートになりたいと望む選手もいるのではないでしょうか。たとえば五輪選手ですとか」

 宮内アナの鋭い指摘に芝野教授は顔を曇らせた。芝野教授は伏し目がちに答えた。

「二十年以上前のことですが、世界レベルのスポーツ選手百九十八人を対象に『ドーピングで金メダルが保証されるなら、五年以内に死んでも構わないか』と質問したことがあります。過半数が『イエス』と答えました。その後十年にわたり、二年ごとに同じ調査を行いましたが、約半数が『イエス』と答える結果に変わりはありませんでした」

「エグい質問じゃねえか」

 ビリーのちゃらけた表情が一変する。

「聞き取り調査した中には十六歳の選手もいました。二十一歳で死んでもいいと考えるのは心理学的にも深刻な問題です」

 芝野教授はビリーの呟きに頷きを返しながら、そう答えた。

「ドーピングというと薬を飲んだり、注射を打ったりといったイメージがありますが、遺伝子ドーピングはどのように実施されるものなのでしょうか」

 宮内アナが遺伝子ドーピングの手順についての解説を求めた。

「体内に外来の遺伝子を導入する技術は、大きく分けると二つあります」

 芝野教授は図入りのフリップを手にして説明した。

「一つが『遺伝子組み換え』です。導入する遺伝子は、特定のタンパク質の設計図となっている遺伝子に、この遺伝子の発現を活性化する『プロモーター』という遺伝子をつなげたものです。遺伝子組み換えでは、受精卵に外来遺伝子を注入し、『組み換え』という現象を利用して本来ある遺伝子(ゲノム)の中に取り込ませます。卵が分裂し、成熟した個体になっても導入遺伝子はすべての細胞に均等に分配されます。しかしながら、受精卵を扱うためヒトに即応用可能な技術ではありません」

 芝野教授が説明している合間に、口角泡を飛ばしながらビリーが割り込んだ。 

「じゃあ、あれじゃねえか。火野が生まれながらの〈作られた子供〉だとかいうのは嘘っぱちかい? 生まれる前っつーと、二十年近く前から計画されていたってことになるわな」

 ビリーの横槍にも嫌な顔をせず、芝野教授は小さく頷いた。

「ええ。受精卵段階から操作されたという可能性は限りなく低いと考えます」

 芝野教授がフリップに目を移し、説明の続きに戻ろうとするとビリーが再び割り込んだ。ビリーの隣の席に座る宮内アナが露骨に嫌な表情をして見せたが、ビリーは意に介していないようである。

「作られた子供かどうかってのは調べりゃ分かるもんなのかい?」

 芝野教授は少し困ったような顔つきになった。

「遺伝子導入の痕跡を血液検査で検出できないか、という研究が急ピッチで行われてます。ですが、現状では『検出不可能』という結果ばかりです。生体組織診断(バイオプシー)を採って遺伝子解析を行えば外来遺伝子の証拠を見出すことは可能ですが、スポーツの現場ではまず実行不可能でしょう」

「つまり、ドーピングしてても分からねえってことか。そりゃ凄いな」

 ビリーが腕組みをしながら、うんうんと唸った。

「プロ野球のドーピング検査は尿検査だと聞いたことがありますが、先ほどご説明いただいた血液検査や尿検査ではドーピングの有無を判定できないということでしょうか」

 宮内アナの質問に芝野教授が丁寧に回答した。

「ええ、遺伝子ドーピングの場合は現状判定不可能です。通常のドーピングであっても、尿検査で一体十万円、血液検査はそれ以上の費用がかかりますので、資金的にも人材面でも摘発する側が限界を迎えつつあります。あまり大きな声では言えませんが、オリンピック出場選手によるドーピングのうち、検査で発覚するのは10%にも満たないとの説もある程です」

「ドーピング天国じゃねえか!」

 ビリーが大声で叫んだ。ビリーの両隣に座る宮内アナと芝野教授が、お互いに顔を見合わせて苦笑した。

(著者:神原月人)


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