
大学でも最後まで選手としてプレーした長島監督だったが、指導者になることは一切考えていなかった。
「ベンチに入れるか入れないかという状態でしたから、野球を優先して就職活動も正直片手間でやっていました。特に指導者になりたいということもなかったですね」
何とか人材関連の会社に就職が決まったが1年で辞めた。そんなとき、現在は早大学院の野球部長で、当時は東京都市大高校で教員をしていた高校時代の同級生・野口順平氏から「非常勤の体育教師を探している」という話がきた。
「大学時代に教員免許はとっていたので非常勤の教員としてスタートしました。ただ当時の野球部はそこまで力を入れていなかったので、平日は教員をしながら土日は江戸川中央シニアの練習を手伝っていました。そんな状態が2年くらい続いたのですが、今は東京都市大高校の監督をされている野田宏幸先生が赴任されて『ちょっと野球部も頑張りたいから手伝ってほしい』ということを言われ、野田先生が部長、私が監督ということになりました」
ようやく高校野球の指導者となった長島監督だったが、なかなか結果を出せずに苦しい日々が続いた。
「大学時代、野村監督がキャッチボールをとても大事にされていて、私自身も正確に投げることが苦手だったので指導者としてもその点は重要視しました。ただ東京都市大高校は進学校で、現実的な目標として甲子園を目指して入ってくる選手はいません。なかなか結果が出なかったので、東京の若い指導者の集まりに入れてもらって色々と教えてもらいながらやっていました」
そのときに教えてもらったのが、昨年の夏の甲子園準優勝の関東一高監督・米澤貴光氏であり、後に青山学院大を全日本大学野球選手権2連覇に導く青山学院高監督の安藤寧則氏だった。

「それでも東京都でベスト16に入ったのが最高成績だったと思います。今振り返ってみると、自分の型に選手をはめようとし過ぎていたと思います。言い方は悪いですが、ちょっと将棋の駒みたいに考えていたところもありました。真面目な子が多かったので、こちらの言うことは忠実にやろうとしてくれるのですが、それ以上のプラスアルファみたいなものを出してあげることができませんでした」
もう少し選手たちの意向などを聞きながら、良さを引き出すような指導ができていれば・・・・・・。自分の指導法を悔いた。それでも大学で野球を続ける選手は多かった。
「勉強も本当にしっかりやる子が多くて、東京六大学などで野球を続けてくれる選手は多かったです。自分が監督をしていた時の選手で2人東大の野球部に進んでくれて、社会人野球の明治安田生命に行った松岡泰希もその1人です」
そこからどのような経緯で東京都市大塩尻に異動し、コンスタントに上位進出を果たすようになったのか。後編でお届けする。(取材・文:西尾典文/写真・構成:編集部)
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