学校・チーム

【下関国際】「弱者が強者に勝つ」

2019.8.28

9人に満たない部員数、雑草だらけのグラウンド、ヤンチャな生徒たち、未曾有の災害……さまざまな困難を乗り越え、いかにして甲子園への切符を摑んだのか?
「Timely!」編集の『どん底からの甲子園』(辰巳出版)から、下関国際野球部の本書掲載内容の一部を紹介します。


「弱者が強者に勝つ」より

坂原秀尚監督就任以前の記録が野球部の部室にある。それによると、創部以降、夏の県大会初戦を勝ち上がったのはたったの2回しかない。弱い野球部には熱心なファンもおらず、下関国際の台頭を望む人は少なかった。当時の練習試合を新谷有介は以下のように振り返った。

「どことしてもみんな格上で勝つことも容易じゃなかったです。負けて雰囲気が悪いというか、負けしか知らない。日々坂原監督に言われ続けてきたことが試合の中でできたかどうかを振り返ってまた学校で練習するだけでした」

部員たちは坂原監督がいろいろな高校へ電話をして練習相手を探していることは知っていた。勝てなくても1回1回の練習試合がとても貴重な機会であることは共通認識だった。

そんな中で、坂原監督就任当時から熱心に話を聞いてくれる指導者がいた。県立南陽工業野球部の山崎康浩監督だ。監督として春夏通算4度の甲子園出場を果たした、山口県が誇る名将である。坂原監督は多くのことを山崎監督から学んだ。

南陽工業との練習試合当日、下関国際の部員は8人しか揃わなかった。それでも山崎監督は8名を連れて練習試合へ来るよう促した。足りない1名は南陽工業の部員を貸してくれた。県内の歴史ある強豪校が胸を貸してくれたうえ、A軍レギュラー選手ばかりを揃え、下関国際8名の相手をしてくれた。強豪の胸を借り必死に下関国際の生徒は戦ったが、1点も取ることができずに午前中の1試合を終えた。

「お前、(敗因を)選手のせいにしとるだろう」

昼食の時間、坂原監督は山崎監督からそう言われた。下関国際が弱いのは、人数が集まらないことや能力の高い選手が集まらないことが原因だと思っているだろうというのだ。坂原監督の胸には思い当たる節があった。

すると山崎監督からびっくりする提案があった。午後の2試合目は監督を入れ替えてやってみようと言われたのだ。下関国際を山崎監督が指揮し、南陽工業を坂原監督が率いるのである。


試合が始まって早々、下関国際の部員たちは普段通りに山崎監督に話しかける。敬語は上手く使えず態度も良くなかった。「ちょっと持っといて」と、山崎監督にバットを持たせ、スパイクの紐を結び直している選手までいた。何度も何度も坂原監督は生徒の失態を詫びに向かおうとしたが、山崎監督は絶対に南陽工業ベンチを離れさせなかった。

対する南陽工業ベンチでは、山崎監督の教えが骨の髄まで染みついたAチームの選手たちが下関国際を相手に真剣に試合をしていた。率いる坂原監督は、特に何も指示は出さず南陽工業の生徒たちが作る試合を見ていた。自分たちで判断しゲームを作れる。指示をする必要もないと思っていた。



そうこうして試合が終わると、結果はなんと6対6の引き分け。午前中までどこと練習試合をしても負けることが多かった下関国際が、強豪校相手に引き分けていた。

下関国際がある下関市は近辺に多くの古豪がひしめく地域でもある。市内の下関商業や早鞆、宇部市の宇部商業や宇部鴻城。地元の野球が上手い中学生はみんな歴史ある有名校へ入学していく。特に下関商業は地元から人気が高い。その中で下関国際が力をつけ、今後下関地区大会を制し県大会へ勝ち上がっていくためには、既存戦力をいかに最大限活かし戦うかを常に考える必要があると教わった。

山崎監督も下関中央工業に務めていた頃、戦力確保に悩んだことがあった。公立高校がゆえに県外から有能選手を補充することも困難である。いかに下関中央工業を選んで入学してきた生徒を鍛え上げ、下克上を起こすか。

「弱者が強者に勝つ」

この山崎監督の教えが、坂原監督の考えを大きく変化させた。そして下関国際野球部はこの後、驚くべきスピードで成長していくこととなる。
(文・写真/喜岡桜)

続きは本書よりお読みください



【掲載高校】

◎私立おかやま山陽高校(岡山県)
〜異色な指導で新入部員3人からの大躍進〜
「技術のある子」のスカウトをやめた時に転機が訪れた。
勝てない野球部を異色の経歴の指導者とスタッフが懸命に指導。
10年間で、甲子園出場、プロ野球選手輩出、部員100名を達成した苦闘の歴史。

◎私立下関国際高校(山口県)
〜廃部危機に追い込まれた野球部の下克上〜
部員の不祥事よって崖っぷちに立たされた野球部の監督に就任。
部員1人の時期も諦めることなく選手と向き合い、自分と向き合い続けた熱血指導者は、「弱者が強者に勝つ」をスローガンに戦う。

◎私立霞ヶ浦高校(茨城県)
〜9回の絶望の末に勝ち取った甲子園、その先にある未来〜
アウト1つ、あと1球、夢の舞台まで数センチのところにいながら、いつも勝利を逃してしまう。
立ち上がれないほどの絶望を味わいながらも、自問自答を繰り返し這い上がってきた監督とチームの物語。

◎私立折尾愛真高校(福岡県)
〜選手9人・ボール6球・グラウンドなしからのスタート〜
女子校から共学高になった翌年創部した野球部は、全てない・ない尽くし。 グラウンドも手作りして、チームの一体感が奇跡を起こす。
産みの苦しみから栄光を勝ち取った野球部が次に繋げるバトンとは。

◎私立クラーク記念国際高校(北海道)
〜通信制高校の創部3年目の奇跡〜
通信制の世間のイメージを覆す創部3年目の甲子園出場。
選手が集まらない、知名度がない、通信制という特殊な環境の中、かつて駒大岩見沢を率いた名将は、どのようにこの苦境を切り拓いていったのか。

◎県立石巻工業高校(宮城県)
〜大震災が残したもの、甲子園が教えてくれたもの〜
東日本大震災から8年。
2012年に21世紀枠でセンバツに出場してから7年が経った。
心に秘めるのは、あの時心を奮い立たせてくれた「野球への恩返し」。
監督も選手も野球の底力を信じて進む。



PICK UP!

新着情報