東北大会を勝つために
準備した2つの秘策
東北大会で勝つために、平塚監督にはある秘策があった。走塁だった。「相手校は強豪校ばかりですから、県大会のような盗塁やセーフティバントは簡単に通用しない。エンドランか送りバントの後、1死二塁からヒット1本で点を取る練習ばかりやっていました」と打ち明ける。
今年のチームは1番我妻秀飛(2年)、3番舟山昂我(2年)、5番村上太生輔(2年)ら50mを6秒前半で走る俊足ぞろい。長打は狙わず、繋ぐ意識を心がけた。遠藤瑠祐玖(るうく)主将(2年)は「ジャンケンで勝ったときはすべて先攻を取っていました」と胸を張る。東北大会5試合すべて先攻。うち3試合が初回に先制点を取った。対戦した八戸学院光星の仲井宗基監督は「(俊足の)データは頭に入っていたがケアできなかった。一から立て直します」と敗戦の弁。大会前、教育実習で母校に帰ってきていた2016年夏4強の鈴木謄磨(とうま)元主将(仙台大4年)から走塁のコツを学んでいたことも生きた。
もうひとつの勝因はエース谷木亮太(2年)の好投だ。谷木は球速130キロ前半ながら抜群の制球力でゴロの山を築いていった。「熊原もそうだったのですが、球質がいいんです。スピードガンの数字には出ないキレがあり、打者の手元まで伸びてくる」(平塚監督)。中学野球部時代は無名だった谷木。ベンチ入りを果たした2年夏に平塚監督からスライダーを教わり、そこから配球の幅が広がった。テンポよく投げる谷木の好投に打線も奮起した。
準決勝を前に、球数制限の壁
しかし、準決勝を前にある問題に直面した。そう、「1週間500球」の球数制限だ。平塚監督が苦しい胸の内を打ち明ける。「(センバツをかけて)準決勝で谷木を投げさせるか、決勝に温存させるか。決断が難しかった。ドクターの検診も受けたうえで選手の意見を聞いたら『準決勝は絶対に勝ちたい。センバツに出たい。谷木でお願いします』と言う。決勝でボロ負けしてもいいのか? と聞いたら『僕たちが10点以上取ります』と。選手たちの目は真剣だった」。谷木は準決勝で一世一代の好投を見せるも、中1日後の決勝は先発を回避。そして大敗…。平塚監督は「あの時の自分の判断は正しかったのか今も悩んでいます」と吐露する。
本来は柴田も複数投手で臨む予定だった。しかし2番手投手で準備していた遠藤が大会前に肩を負傷。無理をさせるわけにはいかなかった。3位校としての出場であり1試合多かったことも響いた。東北地方の秋は短く、大会の日程調整の苦労は知っている。口には出せない複雑な実情があった。
東北大会敗戦後に
平塚監督が選手に贈った言葉
「東北大会の決勝は大敗でしたが、選手たちには『よく頑張った。俺は驚いたぞ。お前たちを誇りに思う』と言ってやりました。悔し涙を流す者もいましたが、歴史を作ってくれたことは間違いない。本当によくやってくれたと思います」平塚監督はきっぱりと言い切った。仙台大学の室内練習場を借りての練習日。視線の先にはセンバツ出場校発表の1月29日を前に「今」の課題に黙々と取り組む選手たちの姿があった。柴田高校のホームページには高村光太郎の言葉が掲げられている。
「私たちの前に道はない、私たちの後に道ができる」
昨秋、選手たちが残した“道程”には、大きな価値があった。そして希望があった。
◆宮城県立柴田高校
1986年(昭61)創立、創部。土生義弘校長。校訓は自立・敬愛・英知・創造・忍耐・強靭。普通科、体育科。野球部以外の強化部はウエイトリフティング部、陸上競技部、柔道部、剣道部、水球部、体操部。野球部は2年=18人、1年=15人。女子マネージャー=1人。佐藤瞬部長(33)、平塚誠監督(48)。所在地=宮城県柴田郡柴田町大字本船迫字十八津入7-3
◆平塚誠(ひらつか・まこと)監督
1972年(昭47)10月3日生まれ。宮城県仙台市生まれ。仙台東から仙台大でプレー。外野手。泉、仙台向山で講師。村田で監督を4年務めたのち石巻(定時制)、河南(現石巻北)で野球部を指導。2010年4月に柴田に赴任。教え子に熊原健人(元楽天)など。体育教諭で3年学年主任も務める。
次回「こうして僕らは強くなった! 東北大会準優勝を勝ち取った練習初公開」に続く
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