企画

連載野球小説 『天才の証明』 #36

2016.9.30


〜第36回〜

「ただ、問題は山積しておりましてね」

 芝野教授が苦笑いしながら言った。

「遺伝子と形質発現の関連がよく理解できていなかった一昔前、多くの学者は一つの遺伝子は一つの形質に対応していると単純に考えていました。そのため技術的な問題はともかく、原理的には理想のデザインベビーを作るのは簡単だと考えていた節があります」

 芝野教授の説明に、宮内アナが不思議そうな顔をした。

「たとえば髪の色がブロンドで、脚が長く、IQが高く、足が速い子供を作ろうと思えば、ブロンドの髪の遺伝子、脚を長くする遺伝子、高IQの遺伝子、足が速い遺伝子をもつデザインベビーを作ればよい、といった具合ですね」

 ビリーもどこか不思議そうな顔つきをしている。

「はあ。それの何が問題なのでしょうか」

 芝野教授は終始好々爺然とした雰囲気のまま、にこやかに説明を続けた。

「発生遺伝学の発達に伴って、事はそんなに単純ではないことがだんだんと分かってきました。一つの形質を作るために沢山の遺伝子が協同作業をしていて、しかも個々の遺伝子は一つの形質に関与しているばかりでなく、いくつかの形質に同時に関与していることも分かってきたのです」

「えーと、すみません。よく理解できないのですが」

 宮内アナが当然のように解説を求めた。

「たとえば東洋人に多い艶のある黒髪と歯の裏側が凹状になるシャベル型の切歯の発現には、同じ遺伝子が関与していることが報告されています。第二染色体のEDARという遺伝子は、この二つの形質の発現に同時に関わっているということです」

「……つまり?」

 宮内アナが首を傾げた。

「つまり、これが何を意味するかというと」

 芝野教授が説明を補足した。

「たとえば足の速さをもたらす遺伝子は、足が速いというポジティブな形質だけでなく別の形質にも関わっている可能性があり、もしかしたらその中にはネガティブな形質も含まれているかもしれないということです」

 ビリーは腕を組み、珍しく黙って芝野教授の説明を聞いていた。

「先に申し上げた筋肥大をもたらす遺伝子の挿入によってトレーニング効果と同等、ないしはそれ以上の筋力増強をもたらす可能性はありますが、それに随伴して好ましくない形質が出現する可能性も考えられます。遺伝子の協同作業の内実もまだほとんど判明していないので、個々の遺伝子は独立にはポジティブな形質を作る確率が高くても、共存するとネガティブに働かないとも限らないのです」

 収録時間が押しているのか宮内アナがADの方を向き、まとめに入りたそうな素振りを見せた。司会のビリーけんじは瞑目して、すべてを宮内に丸投げする構えを見せている。

「芝野教授、たいへん貴重なお話どうもありがとうございました。一口に遺伝子ドーピングと言っても、実用に至るまでにはまだまだ多くの課題が残されているように思いましたが、最後に一言頂戴できますでしょうか」

 芝野教授は考えをまとめるためにか、わずかに目を閉じた。

「技術的な問題や副作用等の可能性を考慮すると、現段階において誰かが遺伝子ドーピングをやっているとは極めて考えにくいかと思います。ですが、将来的にはこの技術を試したいというアスリートや科学者がきっと出てくるはずです」

 芝野教授の表情から笑顔が消えた。

「もし遺伝子ドーピングが行われれば、その時点でトップレベルのスポーツはその価値を完全に消失すると断言できます。そうなるか否かは、スポーツに関わる人々の良識に委ねられているのです」

 芝野教授が生真面目な顔で一礼をすると、番組のエンドロールが流れた。

(著者:神原月人)


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