企画

連載野球小説 『天才の証明』 #35

2016.9.28


〜第35回〜

「先ほど体内に外来の遺伝子を導入する技術は大きく分けると二つあると申し上げましたが、もう一つについてご説明してもよろしいでしょうか」

 芝野教授がフリップを手にしてご丁寧にも説明の許可を求めた。宮内アナは、どうぞどうぞと促す仕草をする。

「では」

 芝野教授がひとつ小さな咳をした。

「先ほどご説明した『遺伝子組み換え』は受精卵、つまり生まれる以前の段階での話でした。それに対して『体細胞遺伝子導入』は成熟した個体の特定の細胞に遺伝子を導入します。導入する遺伝子にプロモーターをつなげたものをウイルスの遺伝子に挿入し、そのウイルスを増殖させ、目的とする組織の細胞に感染させます。ウイルスの遺伝子が多数の細胞の中に入り、挿入した遺伝子の働きによって目的とするタンパク質が多量につくられるという仕組みです」

 科学音痴を自認する宮内アナが、分かったんだか分からないんだか曖昧な顔をした。芝野教授は宮内アナの顔をちらりと窺ってから説明を続けた。

「トレーニングによる筋肥大には、1.筋線維内のタンパク質合成の活性化、2.タンパク質分解の抑制、3.筋線維の幹細胞である筋サテライト細胞の増殖の三つの過程が関与しています。これら三つの過程を調節するタンパク質の遺伝子を筋線維に導入し、過剰に発現させれば、トレーニングしなくても筋肥大が起こることになります。その候補としていくつかの『成長因子』と呼ばれるタンパク質が挙げられます」             

 宮内アナは両手を上げて、もう何が何だか分かりませんというポーズを取った。

「まずインスリン様成長因子。IGF-1とも言いますね。これはトレーニングによって筋線維から分泌され、筋線維自身と筋サテライト細胞の両方に作用して、先述の三つの過程を活性化します」

「要はあれだろ。薬や注射で体内に摂取するか、遺伝子ごとぶち込むかっていう違いだな」

 ビリーはなんとなく理解しているらしい。

「ええ、その通りです」

 芝野教授が笑顔で答えた。宮内アナは理解が追いつかないのか、苦笑いで誤魔化しているようだ。

「次にマイオスタチン。ミオスタチンとも呼びます。これは筋線維から常時分泌されていますが、IGF-1とはまったく逆に三つの過程を強く抑制します。すなわち筋が過剰に肥大することのないように抑えているタンパク質です」

 宮内アナは「はあ、マイオスタチンですか」と相槌を打った。

「マイオスタチンが筋のサイズに及ぼす影響はとても強く、遺伝的変異によってマイオスタチンを作ることのできない個体は『筋倍加変異』と呼ばれ、恐ろしいほどの筋肉ムキムキになります。また、トレーニングを行うと筋の中でのマイオスタチンの量が一般的に減少し、三つの過程の抑制が外れて活性化します」

「なるほどね。つまりマイオなんちゃらが減りゃあ筋肉ムキムキになるって訳か」

 ゲストの話を真面目に聞いている風には見えないビリーがそう要約した。

「理解がお早いですね。ただ、遺伝子導入ではマイオスタチンの発現量は増やすことはできても、低減させることは困難だという問題がありましてね」

 芝野教授がにこやかに説明を続けた。

「そこで考えられたのがフォリスタチンというタンパク質です。フォリスタチンはマイオスタチンに結合し、その活性を抑えることで筋肥大をもたらします。筋肥大の抑制の抑制ということですね」

「……抑制の抑制?」

 宮内アナは相変わらず要領を得ない顔をしていた。

「そうですね、ちょっと分かりづらい表現でしたかね。例えば一日百個パンを焼くパン屋さんがあるとしましょう。ですが、ここ数日お客さんの入りが悪くて売れ残るので、一日に作る量を五十個に制限したとします。この一日五十個までしか作っちゃ駄目よ、という指令がストッパーになっているのです。いわばパンの作る個数を抑制している元凶です。そこで、この個数制限をしている指令自体を取っ払ってしまえば、再びパンを百個焼けるようになる、と考えてみてください」

 芝野教授が宮内アナに向けて分かりやすい説明をした。

「一日五十個までしか作っちゃ駄目ですよと指令を出しているのがマイオスタチンで、その指令を解除する役割なのがフォリスタチンと考えると分かりやすいかもしれません」

 宮内アナが「ああ、なるほど。よく分かりました」と大きく頷いた。

「要はブレーキをぶっ壊すみたいなもんだな」

 ビリーがそう言って割り込んだ。

「ええ、そうですね」

 芝野教授が鷹揚に頷く。

「ヒトのフォリスタチン遺伝子にサイトメガロウイルスという増殖能の高いウイルスのプロモーターをつなぎ、それをアデノウイルスの遺伝子に挿入してアカゲザルの大腿四頭筋に注射する、という実験を行ったことがあります」

 芝野教授が一旦言葉を切り、呼吸を整えた。
「五ヶ月後、遺伝子を導入した筋は、導入してない反対側の筋に比べて周囲長で約25%、横断面積換算で約60%肥大し、筋力では70%以上も増加しました。驚異的ともいえる肥大です。筋線維では速筋線維に著しい肥大が見られ、筋力トレーニングと同様の効果とみなすことができます」

 興奮気味に喋る芝野教授の説明にいまいち凄さを実感できなかったのか、宮内アナが問うた。

「つまり、この実験はどんな未来を示唆しているのでしょうか?」

「筋肥大の効果は遺伝子を導入した筋にのみ生じるので、近い将来この技術を使えば、簡単に好みのボディをデザインできるようになると考えます」

 やや頭頂部の薄くなった白髪を撫でながら芝野教授が答えた。

「サルで成功したってことは、人にも使えるってことかい?」

「ええ、サルで成功していることはヒトでも即実施可能であることを示唆しています。遺伝子操作の基礎技術があればできてしまうことですので、世界アンチドーピング機構が慌てていることでしょうね」

「仮に遺伝子ドーピングをやってても、その証拠が見つけられねえってなれば、取り締まる側としちゃどうしようもねえわな」

 ビリーは得心したのか大きく頷いた。

(著者:神原月人)


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