企画

連載野球小説 『天才の証明』 #33

2016.9.21


〜第33回〜

 騒々しさから遁走し、見知った我が家の玄関先に辿りついたとき、不意にえもいわれぬ感覚にとらわれた。ああ、やっと帰ってこれた。訳もなくそう思った。我が家が恋しいとは、きっとこういう気分を言うのだろう。しみじみ。

 川村記者から決定的な言質を引き出すために協力を依頼した内田真紀と霧島綾両名を労うために「食事を奢る」と打診したところ、「あんまり高い食事だと悪いので、じゃあファミレスでいいよ」との返答があった。相手の懐事情を気遣える洗練された子女の返答だと片時でも思ってしまったのは一生の不覚である。

 デザートは別腹とはよく言ったものだが、別腹にも程があろう。十二時過ぎから食べ始めて、先ほどそのフードファイトじみた食事会から解放されたところだ。今はもうとっぷりと日が暮れている。作家の三島シンジも食事に誘ったが、時間の都合で無理だとすげなく断られた。原稿の締め切りでもあるのかと勝手に納得していたが、なんのことはない。深夜に原稿を書いているので日中は寝入っているからだと内田真紀から聞いた。

 昼夜逆転した浪人生みたいな生活だな、と思ったことは心の中だけに留めておいた。波風が立ちそうなことは、言わぬが花である。

 内田真紀は家を出る際、昼までは確実に起きてこない三島に置き手紙を書いてきたらしい。メールやSNSじゃないところがなんとも古風である。生活時間帯がバラけている方が摩擦が少なくて、関係は良好に保たれるものなのかもしれない。目の前であんなやけ食いを見せられたら百年の恋ですら速攻で覚めそうなものだが、そこらへん何とも感じないのであろうか、三島のやつは。どうにも人と違う感性を持っているようである。

 内田真紀と霧島綾は家で待つ三島に夜ご飯と夜食を買ってから帰るとのことで、惣菜屋に寄ったようだ。「まだ食うのか?」という言葉はそのまま飲み込み、二人とは惣菜屋の前で別れた。今頃、作家先生は夜ご飯を済ませて、お夜食の時間であろうか。

 山口俊司は一人暮らしの静まった部屋でテレビを点けた。普段は野球中継とスポーツニュース以外のテレビは見ない性質だが、今日は火野周平に関する話題があるとのことらしいので特別だ。 

(著者:神原月人)


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