企画

連載野球小説 『天才の証明』 #44

2017.2.14

〜第44回〜

二回のマウンドに登った世良は、四番DHの小笠原信彦と対峙した。

負ければシーズン終了の土壇場でセインツの岡田監督が頼ったのがベテランの力だったようだ。ライトスタンドから野太い小笠原コールが流れた。

世良は笠松捕手のサインに小さく頷くと、走者もいないのにセットポジションから一球目を投じた。アウトローに決まったストレートは電光掲示板に138㎞と表示された。

140㎞にも満たない球速。これは良い時の世良の兆候だった。

「138㎞やて。今日はダメそうやな」

 葛原正人が双眼鏡を片手に呟いた。いや、今日の調子は決して悪くない。

プロの水準からすればストレートが決して早くはない世良とて、力んで投げれば初回から最速で145㎞程度の速さのボールを放ることはできる。だが、速さを追求するあまりに上体に力が入りすぎて、球が上ずり、コントロールを乱すというのが前半戦における炎上パターンであった。

一方で130㎞台後半のストレートが決まる日は、大して力が入っていないように見えても糸を引くような直球にはキレがあり、球速以上の体感速度となる。余計な力が入っていないのでコースにも決まる。カウントを整えるのに苦労しないので、ストライク優先となり、追い込まれたバッターは苦し紛れにボール球を振らされる。

詰まる所、世良の好不調のバロメーターは直球のスピードを見れば分かるのだ。

いかに気合を入れず、脱力して投げるか。それが世良正志の永遠のテーマであり、それさえできればコントロールを乱すことはない。

世良の二球目は見せ球だったのか、アウトコース高めにボール一つ外れた。こちらもキレの良い136㎞の直球だった。どうやら今夜は本格的に良い日らしい。

三球目。一転して内角低めへと放ったボールは、小笠原がバットを振ったタイミングに呼応するかのように、わずかにボール半個分内角へ食い込むようにスライドした。132㎞のカットボール。小笠原のバットをへし折り、ぼてぼてのピッチャーゴロに仕留めた。

球場内が歓声に沸く中、ライトスタンドからの小笠原コールが沈黙した。

「今日は絶好調の日みたいだな」

 拳を固く握りながら、山口が誰ともなしにそう呟いた。

こういう日の世良ほどリードしていて楽しいことはない。笠松捕手の表情はバックネット裏の席からは窺い知れないが、きっとマスクの下ではほくそ笑んでいることだろう。

 不思議な感覚だった。笠松捕手のリードが手に取るように分かった。笠松と連動してマウンド上の世良を操っている。奇妙だが、そんな実感さえあった。

 五番の宇野が右打席に入った。

レスラーのような体格からも分かる通り、典型的なプルヒッターである。笠松は初球にシュートをインサイドに投じさせ、のけ反らせておいた上で二球目、三球目、四球目としつこく130㎞台半ばのストレートで攻めた。

五球目はインサイド低めに際どくスプリットを沈めたが、宇野のバットがかろうじて止まった。執拗なまでの内角一辺倒でツーボール、ツーストライクとなり、六球目はカットボールを外角低めに要求した。見逃せばわずかにボールであったかもしれないが、宇野は腰砕けのバッティングでぼてぼてのファーストゴロに倒れた。

 続く六番ライトの左の好打者茂手木を、世良は真ん中低めに落とすスプリットでショートゴロに打ち取った。やや強い当たりであったが、ショートを守る石原が軽快にさばいて難なくアウトにした。三塁ベンチに引き上げる世良と捕手の笠松がこつんとグータッチを交わした。

二回裏のセインツの攻撃は四番の白鳥謙作からであった。ドーム内に「四番DH白鳥」のアナウンスが響く。打点王を獲得した昨季ほどの輝きはなかったが、今季も三割近い打率を残しているガンナーズ打線の中心人物である。

世良の後半戦の復調は笠松捕手の功績もあるが、皮肉にも正捕手白鳥が右肩を負傷しDH出場が多くなったこととも無関係ではないだろう。セインツの左腕エース藤原が投じた三球目の大きく割れるカーブを、白鳥はちょこんと合せてセンター前へと運んだ。ガンナーズ待望のノーアウトのランナーだ。

 ネクストバッターズサークルで二度ほど素振りを繰り返していた背番号11が静かに左打席に立った。山口の隣に座る葛原正人が「来たで、来たで、来たでーーー」と興奮気味に口走り、立ち上がって声援を送った。

「五番ライト火野、背番号11」

 場内アナウンスと共に球場内が揺れた。レフトスタンドでは白いユニフォームを着たガンナーズの応援団が火野周平の応援旗を振り、ファンファーレに合わせて気の早いファンが飛び跳ねていた。通称、周平ジャンプ。今季勇退を発表している大ベテラン稲嶺の伝統芸を襲名した格好だ。

通常ガンナーズドームの内野席では飛び跳ねることはおろか立ち上がっての応援自体が禁止されているが、稲嶺ジャンプおよび周平ジャンプの時だけは黙認されている。

 得点圏に走者を置いた状態でのバッターボックスというのがジャンプの発動条件であるが、日本シリーズ王手の場面ということも相まってか、走者一塁にも関わらず盛り上がるレフトスタンドに陣取るファンは既に飛び跳ねていた。

自然発生的に内、外野席の観衆が皆立ち上がり一斉にジャンプした。五人並びのど真ん中の席に座る霧島綾に促され、その両隣に座る山口も三島シンジもガンナーズファンと一体となるように飛び跳ねた。

 四万人に迫る観衆が一斉に飛び跳ねると、震度三、ないしは四程度の揺れが発生するとのことらしく、マウンド上の藤原は表情には出さないものの明らかに投げにくそうにしていた。

 火野周平は大声援を背に果敢にも初球から打ちにいった。

初回の水原の右中間を深々と破るような打球が再現され、打者走者の火野も当然のように三塁を狙った。鈍足の白鳥がゆったりとホームに還り、ガンナーズに先制点が入った。 

火野周平は三塁に足から滑ると、際どいタイミングだったが長い足が三塁手のタッチをかいくぐってベースにつき、セーフとなった。タイムリー三塁打。

 涼しげな顔で三塁ベース上に立ち、ユニフォームについた泥をはたく姿はあまりにも絵になった。初回に三塁に頭から突っ込んで憤死した水原がコミカルヒーローだとすれば、こちらは真の意味での千両役者だった。ドームは最高潮に盛り上がり、観衆は次打者のアルバート・オルティスが打席に入ってもなおジャンプし続けていた。

「六番ファースト、オルティス」

 場内アナウンスが掻き消えるような歓声の中、オルティスは三球目を打って緩いショートゴロに倒れた。火野周平は躊躇なく本塁へと向かったが、一塁ベースに向かって巨体を揺らして走るオルティスを完全に無視して水原隼人が素早くホームへと返球した。三本間に挟まれた火野はストップとダッシュを繰り返して時間を稼ぎ、オルティスが二塁へと進むのをアシストしたのだが、当のオルティスは一塁へ駈け込んで体力を使い果たしたのか、ぜえぜえと息を切らせて一塁ベース上に立ち止まっていた。

火野はサードの宇野に背後からタッチされアウトとなった。二塁への進塁を放棄したオルティスを一塁に残し、ワンアウトとなって七番レフトの松本が左打席に入った。このワンプレイでお祭り騒ぎだったガンナーズドームは一気に沈静化し、落ち着きを取り戻した藤原は松本の外角を執拗に攻め、注文通りに6‐4‐3の併殺に打ち取った。

ドームに溜め息がこだまし、立ち直った藤原はポーカーフェイスでマウンドを後にした。

二回の裏を終わってガンナーズが一点のリードとなったが、三回、四回、五回、六回と神経質な投手戦が続いた。六回終了時点でトイレ休憩と夕食の調達を兼ねてコンコースに出た。ビールと弁当を買い込み、山口は自席へと戻った。

霧島綾がなかなか戻ってこないと思っていたら、ちゃっかりと火野のレプリカユニフォームを着込んでた。いろいろとミーハー丸出しだな、霧島。そして、どうせ着るなら世良のユニフォームだろう、ふつう。

まあ、葛原作らしき趣味の悪いTシャツでないだけマシだが。

にしても、チケットを手配してくれたスポンサーへの配慮はないのか。

「ヤマちんはこれね。はい、とっとと着てね」

 霧島綾はそう言うと丸めたユニフォームを山口に投げて渡した。背番号18。世良のユニフォームだった。……前言撤回。意外と抜け目ないな、お前。

「あり? もしかして笠にゃんのユニフォームの方が良かったかにゃ?」

「いや、これでいい」

もとい、これがいい。山口は仏頂面でそう言うと、厚手のジャンパーを脱ぎ、シャツの上から世良のユニフォームを羽織った。さっきまでは世良を操り、導いているような感覚だったが、今は世良と同化したかのような感覚に陥った。

山口はユニフォームを着込むと、グラウンドに視線を戻した。

マウンドを守る世良はわずかに肩で息をして疲れが見えるものの、七回、八回も0点に抑える好投を披露した。強力なセインツ打線を八回終わって散発の三安打に封じていた。

その三安打すべてを三番の水原隼人が放っていた。初回と四回にどちらもツーアウトから二塁打を放ち、七回にはワンアウトランナーなしからセンター前にクリーンヒットを打っていた。

八回まで無四球に抑えていた世良は、九番から始まるラストイニングも簡単にツーアウトを取った。球場内に「あと一人コール」がこだます中、わずかに勝負を焦ったのか世良がこの日はじめてのフォアボールを与えた。

スコアは二回裏から変わらず一対〇。二死一塁となって、この日世良に対して完璧にタイミングが合っている水原を打席に迎えた。

マウンド上の世良を中心に内野手が集まった。続投か、継投か。三塁ベンチから投手コーチの今中が小走りにマウンドに近寄った。伝令であろうか、今中は口元に手をあて世良と笠松のバッテリーに指示を与えていた。

今中がマウンドを離れ、三塁ベンチへと戻っていった。遠目からは分からないが、山口の目には世良が笑ったように見えた。雰囲気から察するに続投だ。栗原監督は勝負の下駄を世良に預けたのだ。

今中ピッチングコーチがベンチへと戻り、栗原監督に何ごとかを話しかけていた。栗原監督がゆっくりとベンチを出て、審判に身振りを交えて何かを言っている。

マウンド上から野手陣が散ると、なにやら世良がマウンドを降り、グラブを高く掲げてぽんとひとつ叩いた。

「ガンナーズ、ピッチャーの交代をお知らせいたします」

 場内アナウンスが流れ、球場内がにわかに騒然とした。ここまで好投を続けていた世良は、あとアウト一つを残して降板となった。三安打を水原一人に打たれているとはいえ、栗原監督は今日のこの出来ですら世良を信用できないというのだろうか。

「ピッチャー世良に代わりまして、火野。五番ピッチャー火野、背番号11」

 その采配にドームが一瞬にして沸騰するような歓声に包まれた。ライトの守備位置から火野周平が小走りにマウンドへと向かった。

火野が守っていたライトには形式上DHの白鳥が入ることとなり、ガンナーズのラインナップからDHが消滅することとなった。バックスクリーンに映ったラインナップには四番ライト白鳥謙作、五番ピッチャー火野周平と変更された。

「ガンナーズ、守備位置の交代をお知らせいたします。ライトの白鳥に代わりまして稲嶺。四番ライト稲嶺。背番号41」

 目まぐるしい交替であった。

先発の世良に代わってライトを守っていた火野が登板。DHの白鳥が退き、空いたライトに今季で引退を表明しているガンナーズのレジェンド稲嶺が入った。

もし継投に失敗すれば、勝利よりもファンサービスを優先した劇場型采配だと総バッシングを受けることだろう。だが去りゆくバットマンの見守る中で、刀を受け継いだ若き新星が復活のマウンドに登る。これほど粋な演出には滅多にお目にかかれるものではない。

人格者として知られる稲嶺が、ルーキー時代から変わらぬ全力疾走でライトのポジションについた。精悍に日焼けした横顔にライトスタンドからも自然と拍手が上がった。

日本シリーズを最後にバットを置く英雄の前に敵も味方もなかった。

グラウンドの全方位を囲ったスタンドの観衆は互いに肩を組み、飛び跳ね、歌い始めた。ある者は白いタオルを振り、ある者はメガホンを打ち鳴らし、ある者は自作の横断幕を掲げている。守備の場面にも関わらず、稲嶺の応援歌が高らかに歌われた。ひとしり稲嶺コールが続き、火野周平の応援歌に切り換わった。

 マウンド上の火野周平は、ピッチング練習の規定の八球を軽めに投げて終えた。

 勝負の行方は火野の右腕に託された。

観衆の大声援を背に、空気の読めなさでは右に並ぶ者のいない水原隼人がバッターボックスへと歩を進めた。

 さあ勝負だ。この緊迫した場面で望むことはたった一つ。

 水原、空気を読め! その一言に尽きる。

(著者:神原月人)

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